見習いや未経験者として働く労働者が、見習い期間の途中や見習い期間終了後間もない間に退職しようとする場合に、見習い期間中や見習い期間経過後間もない間に退職する場合は技術指導料や研修期間中の経費を支払う旨の約束を雇い主との間で行っていたことを根拠に、雇い主から「見習い期間中の指導料を支払え!」とか「研修期間中の経費を支払え!」などと請求されるケースが稀に見受けられます。
たとえば、「見習い期間中に退職した場合は見習い期間中の技術指導料と経費として1か月あたり〇万円を支払います」といった誓約を店側にあらかじめ行っていたことを根拠に、美容院に”美容師見習い”として働く労働者が退職する際に店側から「今までカットやメイクを教えたんだからその指導料を支払え!」と言われたり、ラーメン店に住み込みで修業中の労働者が退職する際に店側から「見習い期間中の家賃、食費、光熱費、見習い指導で使った材料費を支払え!」と言われたりするケースです。
労働者が一定の専門的技能を必要とされる職種に見習いや未経験者として勤務する場合には、専門的な技能を身につけて雇い主の”戦力”となるまでに、雇い主側から一定の教育や技術指導を受けることがしばしばあります。
このような職場では雇い主側は往々にしてその見習いとして勤務する労働者が技能を習得した後も一定期間その職場で働くことを期待して専門的技能を教えているのが普通ですので、見習いとして働く労働者に見習い期間の途中で退職されたり、見習い期間が終わって間もない間に退職されてしまうと、「元が取れなくなった」雇い主側としては大きな損失となってしまいます。
そのため、そのような損失を補填するために、あらかじめ「見習い期間中または見習い期間終了後一定期間内に退職する場合は技術指導料および諸経費として〇万円を支払う」というような誓約を労働者に求めておき、いざ労働者が退職しようとする際にその退職を申し出た労働者に対して「技術指導料を支払え!」とか「研修期間の諸経費を支払え!」などと請求することがあるのです。
では、このような誓約(契約)を根拠に退職する際に「指導料」や「見習い期間中の経費」を請求された場合、労働者はそれを支払わなければならないのでしょうか?
指導料や見習い期間中の経費を支払う旨の誓約は無効
結論から言うと、労働者が使用者(雇い主)との間で、仮に見習い期間中や見習い期間経過後一定期間を経過しない間に退職した場合は見習い期間中の技術指導料や研修期間中の諸経費を支払う旨の誓約を行っていたとしても、そのような誓約は法律上無効になるものと考えられます。
ですから、仮に退職する際に会社側から「辞めるなら技術指導料を支払え!」とか「退職するなら研修期間中の経費を支払え!」などと請求されたとしても、そのような請求に応じなければならない義務は労働者にはなく、そのような請求は無視して一方的に退職しても構わないということになります。
なぜこのような結論になるかと言うと、そのような誓約自体が違約金の定め(または損害賠償額の予定)を禁止した労働基準法16条に違反することになるからです。
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
先ほども述べたように、一定の専門的な技能を必要とする職種では、使用者が労働者を雇い入れる際に、見習い期間中や見習い期間経過後一定期間その使用者の下で勤務することを誓約させるケースがありますが、このような誓約はそれ自体が労働契約(雇用契約)の内容に含まれることになりますので、労働者がその誓約に反して見習い期間中や見習い期間経過後一定期間が経過する前に退職してしまう場合は、その労働者は「契約の不履行」を犯してしまうということになります。
また、そのような誓約に反して労働者が退職する場合に使用者に対して見習い期間中の技術指導料や諸経費等を支払うという誓約は、その誓約自体が労働契約(雇用契約)の不履行に対して労働者が金銭を支払う旨の誓約となりますので労働契約の不履行に対する「違約金の定め」ないしは「損害賠償額の予定」と理解することができるでしょう。
そうすると、そのような誓約自体が労働契約の不履行について違約金を定めたり損害賠償額を予定する契約を禁止した労働基準法16条に抵触することになり、労働基準法に違反する労働契約(雇用契約)は労働基準法13条の規定によって「無効」と判断されますから、そのような誓約自体が「無効」ということになりますので、そのような誓約に基づいた使用者側からの誓約にも一切応じる必要がないということになるのです。
この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となった部分は、この法律で定める基準による。
労働契約で違約金の定め(または損害賠償額の予定)が禁止されている理由
このように、仮に働き始める際に使用者との間で「見習い期間中または見習い期間経過後〇年(〇か月)が経過する前に退職する場合は技術指導料(または見習い期間中の諸経費)を支払う」旨の誓約をしていた場合であっても、そのような技術指導料や諸経費を支払わなければならない義務は発生しませんし、そのようなお金を支払うことなく退職することは可能といえます。
ではなぜ、この労働基準法16条のような規定が定められているかと言うと、そのような誓約を認めてしまうと労働者の「退職の自由」が確保されず、「強制労働の禁止」を規定した労働基準法5条に、ひいては「奴隷的拘束の禁止」を保障した憲法の18条に反することになり不都合な結果となってしまうからです。
そもそも日本では、使用者と労働者との間の労働契約が「期間の定めのない雇用契約」である場合には2週間の予告期間を置いておけばいつでも、「期間の定めのある雇用契約」の場合でも”契約期間が満了”するか”やむを得ない事由”があるか”契約期間の初日から1年が経過した後”であれば無条件にいつでも自由に退職することが法律で認められています。
また、仮に「期間の定めのない雇用契約」で働く労働者が2週間の予告期間を置かずに退職したり、「期間定めのある雇用契約」で働く労働者が契約期間が満了する前にやむを得ない事由がないにもかかわらず契約期間の初日から1年が経過する前に退職する場合のように、労働者が契約及び法律に違反して退職する場合であっても、労働基準法5条で「強制労働の禁止」が明確に規定されていますので、いかなる理由があろうとも使用者は労働者の退職を制限することはできません。
使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
ですから、日本では労働者がいかなる不当な退職を行った場合であっても使用者は労働者の退職を制限できないわけです。
しかし、もし仮に労働契約の不履行について「違約金」や「損害賠償額の予定」に関する契約をすることが認められるとなると、就労開始時に多額の「違約金の定め(または損害賠償額の予定)を労働者に誓約させることで使用者が容易に労働者の退職を制限し、その意思に反して就労を強制することができることになってしまいます。
たとえば、美容師の見習いが「美容師の免許を取得した後も2年間は勤務を継続し他店に移籍したり独立開業したりしません」「もし仮に美容師の免許取得後2年以内に退職した場合は入社時に遡って1か月あたり5万円の技術指導料を支払います」などと誓約して美容院で働き始め、3年後に美容師の免許を取得したとすると、180万円(5万円×12か月×3年=180万円)という多額の支払いができない限り美容師の免許を取得した後も2年間はその美容院で働くことを強制させられてしまいますので、使用者は多額の違約金や損害賠償額の予定を設定することで容易に労働者を使用者の指揮命令下に拘束することが可能になってしまうでしょう。
このような不都合な結果となることは「強制労働の禁止」を規定した労働基準法5条、ひいては「奴隷的拘束の禁止」を保障した憲法18条に反する結果となってしまうため、労働基準法の16条で違約金の定め(または損害賠償額の予定)が禁止され、そのような誓約が無効と判断されることになるのです。
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
退職する際に見習い期間中の技術指導料や諸経費を請求された場合の対処法
以上で説明したように、「強制労働の禁止」を規定した労働基準法5条や「奴隷的拘束の禁止」を保障した憲法18条、「退職の自由」を保障した民法等の諸規定の要請と「違約金の定め(または損害賠償額の予定)」を禁止した労働基準法16条の規定から、「見習い期間中または見習い期間経過後〇年(〇か月)が経過する前に退職する場合は技術指導料(または見習い期間中の諸経費)を支払う」というような誓約は「無効」と判断されますので、仮に請求を受けたとしても、そのような会社の主張は無視して退職することは認められるといえます。
もっとも、そのような法律上の解釈を会社側が十分に理解しているとは限りませんので、会社によっては退職する際にそのような請求を行ってくる場合もありますので、そのようなケースでは以下のような具体的な方法を取って対処する必要があります。
(1)通知書を送付して請求を拒否する
退職する際に会社から見習い期間中の諸経費や技術指導料の請求を受けている場合にその請求を拒否する場合は、口頭で拒否する旨告知するだけでも構いませんが、より正確を期する場合は次に挙げるような通知書を会社に提出し書面という形で正式に拒否する意思表示を行った方がよいかもしれません。
○○株式会社
代表取締役 ○○ ○○ 殿
技術指導料その他の諸経費の支払い義務不存在確認通知書
私は、〇年〇月〇日、貴社に対し、〇年〇月〇日付けで退職する旨記載した退職届を提出いたしましたが、この退職の意思表示に伴い、貴社から、見習い期間中に私が貴殿から受けた技術指導料及び見習い期間中の諸経費として金〇万円の支払いを請求されております。
この貴社からの見習い期間中の技術指導料及び諸経費等の請求につきましては、私が貴社に入社する際に「入社後〇年以内に自己の都合で退職する場合は見習い期間中の技術指導料およびその期間中の諸経費として入社時にさかのぼって1か月あたり金〇万円を支払う」旨の趣旨が記載された誓約書に署名押印しその支払いを承諾したうえで就労を開始したにもかかわらず、その誓約に反して入社後〇年が経過する前に退職の意思表示を行ったことが理由になっているものと思料いたしております。
しかしながら、当該見習い期間中の技術指導料その他の諸経費の支払いに関する合意は労働契約の不履行に伴う違約金の定め(または損害賠償額の予定)に他ならず労働基準法16条に違反するものであると理解しています。
したがって、かかる誓約は無効であり、私が貴社に対して、見習い期間中の技術指導料や諸経費等を支払わなければならない労働契約上または法律上の義務は存在しませんから、貴社の請求についてはその一切を拒否いたします。
以上
〇年〇月〇日
〇県〇市〇町〇丁目〇番〇号○○マンション〇号室
○○ ○○ ㊞
(2)労働基準監督署に労基法違反の申告を行う
先ほど述べたように、入社後一定期間勤務することおよびその一定期間が経過する前に退職する場合は技術指導料や見習い期間中の諸経費として一定額を支払う旨の誓約は「違約金の定め(または損害賠償額の予定)」と判断されますので、その約定自体が労働基準法16条に違反することになりますし、その誓約によって就労を強制する行為も「強制労働の禁止」を規定した労働基準法5条に抵触することになります。
この点、使用者が労働基準法に違反する行為を行っている場合には、労働基準法の104条において労働者から労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行うことが認められていますから、このような案件で会社から見習い期間中の技術指導料や諸経費等を請求され退職を制限されている場合にも、労働基準監督署に対して労働基準法違反の申告を行うことが可能といえます(労働基準法第104条1項)。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行い、監督署から勧告等が出されれば、会社の方でも執拗な請求を止める可能性もありますので、会社側からの請求が止まない場合には監督署への申告も考えた方がよいのではないかと思います。
なお、この場合に労働基準監督署に提出する労基法違反の申告書は、以下のような文面で差し支えないと思います。
【労働基準法104条1項に基づく労基法違反に関する申告書の記載例】
労働基準法違反に関する申告書
(労働基準法第104条1項に基づく)
○年〇月〇日
○○ 労働基準監督署長 殿
申告者
郵便〒:***-****
住 所:東京都〇〇区○○一丁目〇番〇号○○マンション〇号室
氏 名:申告 太郎
電 話:080-****-****
違反者
郵便〒:***-****
所在地:東京都〇区〇丁目〇番〇号
名 称:美容室サロン・ド・ボタクリー
代表者:○○ ○○
申告者と違反者の関係
入社日:〇年〇月〇日
契 約:期間の定めのある雇用契約(3年ごとの更新)
役 職:特になし
職 種:美容師(※入社時は美容師補助)
労働基準法第104条1項に基づく申告
申告者は、違反者における下記労働基準法等に違反する行為につき、適切な調査及び監督権限の行使を求めます。
記
関係する労働基準法等の条項等
労働基準法第5条および同法16条
違反者が労働基準法等に違反する具体的な事実等
・申告者は〇年〇月〇日に美容師補助として違反者に雇い入れられたが、その際に「美容師の免許を取得した際は免許取得後2年間は自己の都合で退職しない」「免許取得後2年以内に自己都合で退職する場合は入社時に遡って1か月あたり金5万円を見習い期間中の技術指導料及び経費として直ちに支払う」旨記載された誓約書に署名押印し違反者に差し入れた。
その後申告者は〇年〇月に美容師免許を取得したが、その〇か月後の〇年〇月に一身上の都合から退職を決意し、〇年〇月末日をもって退職する旨記載した退職届を違反者に提出し退職の意思表示を行った。
これに対して違反者は、申告者が免許取得後2年以内に退職する場合は技術指導料や諸経費等を支払う旨誓約した事実があることを理由として申告者に対し入社時に遡って1か月あたり金5万円の技術指導料と諸経費等の合計額金〇万円を支払うよう申告者に請求している。
しかしながら、かかる誓約は労働基準法16条が禁止した違約金の定め(または損害賠償額の予定)にあたり、当該誓約をもって金銭の支払いを求めて退職を妨害する行為は強制労働の禁止を規定した労働基準法5条に違反する。
添付書類等
1.〇年〇月〇日に違反者から請求を受けた技術指導料等の請求書の写し 1通
備考
特になし。
以上
(3)その他の対処法
上記のような方法で対処しても会社側が技術指導料や見習い期間中の諸経費等の請求を止めない場合は、会社側が自身の請求によほどの自信があり見習い期間中の技術指導料や諸経費の請求に係る誓約が労働基準法16条に違反しないという確固たる確信があるか、ただ単にブラック体質を有した法律に疎い会社かのどちらかである可能性が高いと思いますので、なるべく早めに法的な手段を取って対処する方がよいでしょう。
具体的には、労働局に紛争解決援助の申し立てを行ったり、自治体や労働委員会の”あっせん”の手続きを利用したり、弁護士会や司法書士会が主催するADRを利用したり、弁護士や司法書士に依頼して裁判を行うなどする必要があると思いますが、その場合の具体的な相談先はこちらのページでまとめていますので参考にしてください。