人事異動の中でも特に労働者に与える影響が大きいのが「転籍」です。
転籍は、
「労働者が自己の雇用先の企業から他の企業へ籍を移して当該他企業の業務に従事すること」
出典:菅野和夫著「労働法(第8版)」弘文堂、415頁より引用
などと定義されますが、たとえば甲社で働くAさんが、甲社との労働契約を終了させて甲社を退職し、新たに乙社との間の労働契約を結んで乙社に入社し乙社の社員として働くようなケースがこれにあたります。
この転籍は、「退職→別の会社への再就職」という手順を踏むことが前提となりますから、従前の会社を退職することを迫られる労働者にとっては受ける影響が甚大です。
そのため、会社が労働者に対して転籍を命じる場合には、必ずその労働者から個別の同意を取ることが必要とされており、その個別の同意を与えない限り労働者は一方的な意思表示で自由に会社からの転籍命令を拒否することができると考えられているのです。
ところで、このように労働者が会社からの転籍命令を断る自由が認められているとはいっても、転籍を拒否するか受け入れるかはもっぱらその労働者の自由意思にゆだねられますので、その労働者が「転籍に同意してもいい」と考えるのであればもちろんその労働者は転籍を受け入れても構いません。
もっとも、仮に労働者が転籍に同意する場合であっても、会社からの転籍の打診に二つ返事で承諾を与えてしまうことは考えものです。
なぜなら、転籍の内容や転籍に同意を与えた後の状況によっては、労働者に不測の不利益が生じてしまうケースも少なからずあるのが実情だからです。
転籍に同意したことで生じがちなトラブルとは
このように、転籍には必ず労働者の個別の同意が必要となりますので労働者は会社からの転籍命令を拒否することができますが、労働者が転籍してもよいと考えるのであれば転籍に同意して転籍先の会社に移籍してももちろん構いません。
しかし、転籍によって様々なトラブルに巻き込まれる可能性があることは認識しておくべきでしょう。
(ア)転籍先での労働条件が当初聞いていたものと異なるケース
転籍を受け入れた場合に発生するトラブルとしてありがちなのが、転籍先の会社における実際の労働条件が転籍前の会社から聞いていたものと異なるケースです。
たとえば、転籍を打診された際は会社から「転籍先では営業職として勤務することになる」と説明されていたのに、実際に転籍してみると営業ではなく工場のライン作業に配属させられたりするようなケースが代表的です。
その他にも、たとえば転籍前は「転籍先では残業はほとんどない」と言われていたのに実際は残業が多くあったり、転籍前は「日勤」と聞いていたのに転籍先では「夜勤」に回されたりするようなトラブルも意外と多く散見されます。
(イ)転籍先での待遇が当初聞いていたものとは異なるケース
また、転籍先での待遇が転籍前の会社から聞かされていたものと大きく乖離していることで労働者が不利益を受けてしまうトラブルも見受けられます。
たとえば、転籍元の会社からは転籍後は給料が上がると聞かされていたのにいざ転籍してみると実質賃金が目減りしていたり、転籍前は有給休暇は年20日と聞かされていたのに実際に転籍してみると転籍先の会社では10日しか与えられなかったというようなケースです。
(ウ)転籍先から受け入れを拒否されてしまうケース
転籍で一番影響が大きいトラブルが、転籍先の会社から入社を断られてしまうというトラブルです。
先ほども説明したように、転籍の場合は今いる会社を退職して転籍先の会社に入社しなおす手順を踏まなければなりませんが、今いる転籍元の会社との間で退職手続きが終わった後に転籍先の会社から入社を拒否されてしまうと、その労働者は行き場を失ってしまうことになるからです。
転籍に同意を与える場合に注意すべきこと
このように、会社から命じられた転籍命令に同意して転籍に応じることも労働者の自由ですが、その転籍に同意した結果、転籍先の会社で当初想定しなかったトラブルに巻き込まれてしまうというケースが多くあります。
では、このようなトラブルに巻き込まれてしまうことを防ぐには、具体的にどのように対処すればよいのでしょうか。
(1)転籍先での労働条件や待遇などをすべて書面で提示してもらう
以上のようなトラブルを回避するためには、会社から転籍を打診された際に、その会社が説明する転籍の内容、具体的には転籍先の会社での待遇や労働条件その他の処遇など、また仮に転籍先に入社できなかった場合の復職やその復職後の待遇処遇等の細かな内容を、口頭ではなく書面の形で提示してもらうことが必要です。
口頭で説明を受けただけでは、後でトラブルに巻き込まれた際に「言った言わない」の水掛け論になって解決を不能にさせるだけですから、会社から説明を受けた転籍に関する内容については細かな部分まですべて書面の形で提示してもらい、その書面を保管しておく必要があります。
(2)転籍に関する書面にはすぐにサインしないこと
また、転籍が実行に移される際には、会社から転籍に関する同意書(承諾書)等への署名押印を求められるのが通常ですが、それらの書面にはその場でサインしないようにしてください。
会社の会議室などに招き入れられてそのような書面を渡されれば、会社からの評価を危惧してすぐに署名してしまいがちですが、いったんサインしてしまえばそのサインを根拠に「承諾書にサインしたでしょ?なんで今さら文句言うの?」などと会社がその内容を強制してくる恐れがあります。
ですから、転籍への同意書(承諾書等)にサインを求められた場合にはその場でサインせず、いったん持ち帰って検討してみる旨回答する方が無難です。
理由は何でも構いません。たとえば、結婚している人であれば「妻にも念のため確認させてください」でも構いませんし、独身なら「親にも確認しておきたいのでサインは後日でもいいですか」とか「彼女にも相談してみたいので…」でもよいと思います。
とにかく、会社から転籍を打診されたその場で書類等にサインしないように気を付けてください。
(3)会社から提示された転籍に関する内容が記載された書面等の内容を弁護士にチェックしてもらう
会社から転籍を打診された場合は、すぐに同意の意思表示をせずに、その会社から説明された転籍の内容が記載されている書面(前述した(1)の書面)や転籍に関する同意書等(前述した(2)の書面)をいったん自宅に持ち帰り、弁護士に相談して内容を精査してもらうことも考えた方がよいと思います。
転籍に関する説明書や同意書は労働契約の細かな修正が入る場合が多いですが、その適正性は労働法にある程度精通した法律専門家でないと判断が難しい面もあります。
ですから、転籍後のトラブルを確実に回避したいと考える場合にはそれらの書面をいったん持ち帰り弁護士に相談して内容をチェックしてもらうことも考えた方がよいでしょう。
弁護士に相談するといっても事件処理を依頼するわけではありませんので、一般的な法律相談として30分5000円程度で簡単な確認ぐらいはしてもらえるはずです(契約書等の内容を精査してもらう場合はもう少し報酬を取られるかもしれませんが…)。
ですから万全を期したいと考えるのであれば、いったん弁護士に相談を入れてみるというのも検討した方がよいと思います。
(4)書類等はすべて保存しておくこと
また、会社から転籍に関する説明がなされた文書等はすべて保管しておくことも重要となります。
将来的に転籍先でトラブルに巻き込まれて裁判にまで発展してしまった場合は、転籍元の会社から具体的にどのような説明を受けていたのかという事実を証拠を提出して立証しなければならなくなるからです。
ですから、前述した(1)や(2)の書面だけでなく、たとえば会社から送信された電子メール等がある場合は、それらのスクリーンショットやプリントアウトしたものを保管しておくことを心がけてください。
会議室などに呼ばれて転籍の打診を受けたような場合も、できればその会話の内容を録音・撮影しておく方がよいですが、録音や撮影は現実的には難しい点もありますので、できる範囲で証拠を残しておくようにしましょう(※会議室で内緒で録音した音源も将来的に裁判で証拠として使用することは可能です)。