勤務先の会社を退職する場合、直属の上司などに退職届(退職願)を提出し退職の意思表示を行うのが通常ですが、ブラック体質のある会社では退職を申し出た労働者に対して「今辞めたら人員不足で発生する損害を弁償してもらうぞ!」と将来的な損害賠償請求を予告し、事実上退職を妨害するケースが見られます。
このような場合、実際に会社から損害賠償請求されることはあるのでしょうか?
また、実際に会社から「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言われた場合、具体的にどのように対処すれば安全に会社を退職することができるのでしょうか?
労働者が退職することを理由に会社から損害賠償請求を受けることは「ない」のが原則
結論から言うと、労働者が仕事を退職したことを理由に使用者(会社)から損害賠償請求を受けることはないのが原則です。
なぜなら、雇用契約における労働者の退職については後述するように民法627条、民法628条、労働基準法137条にそれぞれ規定されており、労働者の「退職の自由」が明確に保障されていますから、それらの法律に準拠して退職の手続きを行っている限り、労働者が退職したことに起因して会社側に損害賠償請求権自体が発生しないからです。
会社側が、退職する労働者に「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と主張しているということは、労働者が退職することによって会社に何らかの損害が発生し、その損害の原因が退職する労働者にあると会社が考えており、その退職を申し出た労働者に対して「何らかの損害賠償請求権が発生する」と会社側が解釈していることになります。
この点、損害賠償請求権の発生要因としては、契約上の義務に違反した場合に”債務不履行”を理由として発生する「債務不履行に基づく損害賠償請求権(民法415条)」と、故意または過失によって相手に損害を与えた場合に”不法行為”として発生する「不法行為に基づく損害賠償請求権(民法709条)」の2種類がありますが、労働者が「退職の自由」が規定された民法627条、民法628条、労働基準法137条に準拠して退職の手続きを進めている限り、労働者には「債務不履行」責任も「不法行為」責任も生じる余地がありません。
債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも、同様とする。
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
つまり、労働者が民法627条、民法628条、労働基準法137条に従って粛々と退職の意思表示を行い退職した場合には、たとえその労働者の退職によって会社側に損害が発生したとしても、会社側にその労働者に対する損害賠償請求権自体が発生する法的な根拠はありませんから、労働者においてもその発生した損害を賠償しなければならない債務不履行責任や不法行為責任が生じないことになるわけです。
したがって、会社側がいくら「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言ってきたとしても、実際に損害賠償請求される可能性はありませんし、実際に損害賠償請求されたとしても、その請求が裁判で認められることはありえないといえるのです。
以下、この点を「期間の定めのない雇用契約」と「期間の定めのある雇用契約」の場合でそれぞれ分けて詳しく解説いたします。
(1)「期間の定めのない雇用契約(無期労働契約)」の場合
労働者が使用者(会社)との間で働く期間を「いつからいつまで」というように限定せず、定年まで勤めあげることが前提となるいわゆる終身雇用で雇い入れられた場合の雇用契約は「期間の定めのない雇用契約(無期労働契約)」と呼ばれます。
一般に正社員など正規労働者として働く場合がこの「期間の定めのない雇用契約」となりますが、アルバイトやパートなどいわゆる非正規労働者として働く場合であっても入社する際に働く期間が「〇年〇月から〇年〇月まで」というように限定されていない場合にはこの「期間の定めのない雇用契約」となるので注意が必要です。
この「期間の定めのない雇用契約」で働く労働者が退職する場合、退職の意思表示を行って2週間が経過した時点で無条件に使用者(会社)との雇用契約は解約されることが法律で定められています(民法627条1項)。
当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。
そのため、労働者が使用者(会社)との間で結んだ雇用契約が「期間の定めのない雇用契約(無期労働契約)」である限り、退職希望日の2週間前までに退職届(退職願)を提出するなどして退職の意思表示を行っておきさえすれば法律上の退職の効果は有効に成立しますから、たとえそれによって会社に何らかの損害が発生したとしても、退職を申し出た労働者に債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)が生じる余地はないことになります。
したがって「期間の定めのない雇用契約」においては、退職する労働者が退職希望日から2週間の予告期間をおいて退職の意思表示を行っている限り、使用者(会社)側に労働者に対する損害賠償請求権自体が発生しないことになりますので、仮に使用者(会社)側が「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言って来たとしても、そのような主張は無視して退職しても全く問題ない、ということになります。
(2)「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」の場合
労働者が使用者(会社)との間で働く期間を「〇年〇月から〇年〇月まで」というように一定の期間に限定する雇用契約は「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」と呼ばれます。
一般にアルバイトやパート、契約社員などいわゆる非正規労働者として雇い入れられる場合がこれに当たりますが、正社員であっても働く期間が「いつからいつまで」というように限定されている場合にはこの「期間の定めのある雇用契約」となりますので注意が必要です。
この「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」で働く労働者については、その契約で定められた契約期間中はその使用者(会社)に対して労働力を提供しなければならない契約上の義務を負担していることになりますので、その契約期間が満了するまでの間は退職が制限されることになります(※契約期間が満了する前に退職した場合は後述するように契約違反として民法415条に基づく債務不履行責任を負担しなければなりません)。
もっとも「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」であっても、次のア~ウに挙げた3つのケースでは、労働者に「退職の自由」が法律で認められていますので、次のア~ウに挙げたケースに当てはまる限り、労働者は自由に退職することができることになります。
ア)契約期間が満了した場合
「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」で働く労働者が契約期間が満了するまで働いた場合は、その労働契約上の義務を全て履行したことになりますので、契約満了日をもって退職することは当然に認められます。
この点、契約満了日をもって労働者が退職したことを原因として何らかの損害が使用者(会社)側に発生した場合に、その損害を退職した労働者が負担しなければならないかが問題となりますが、今述べたように、労働者は契約期間が満了するまで勤務し契約上の義務をすべて履行しているわけですから、労働者に債務不履行責任(民法415条)は一切生じる余地はありません。
また、労働者は契約期間が満了したことを理由に退職しているわけですから、たとえその退職行為によって使用者(会社)側に損害が発生したとしても労働者は契約に従って退職しただけであり労働者に故意や過失は存在しませんから、労働者に不法行為責任(民法709条)が発生する余地もありません。
従って「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」で働く労働者が契約期間満了日をもって退職した場合に、仮に使用者(会社)側に何らかの損害が発生した場合であっても、使用者(会社)側に労働者に対する損害賠償請求権が発生する余地はありませんから、使用者(会社)側が「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言って来たとしても、そのような主張は無視して退職しても全く問題ない、ということになります。
イ)「やむを得ない事由」がある場合
先ほども説明したように「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」で働く労働者はその契約期間中はその使用者(会社)の下で就労しなければならない雇用契約上の義務を負担していることになります。
そのため、「期間の定めのある雇用契約」で働く労働者はその契約期間が満了するまでは労働者の意思で一方的に退職すると契約違反として債務不履行責任(民法415条)が生じることになりますので、契約期間が満了するまでは自由な退職が制限されることになるのが基本です。
しかし、これには例外があり労働者に「やむを得ない事由」がある場合は法律で労働者に「退職の自由」が認められていますので、たとえ「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」として雇い入れられた労働者であっても「やむを得ない事由」がある限り「いつでも」「自由に」退職の意思表示を行って会社を辞めることが可能です。
当事者が雇用の期間を定めた場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる。この場合において、その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるときは、相手方に対して損害賠償の責任を負う。
これは契約期間が定められている場合であっても「やむを得ない事由」がある場合にまで労働者を雇用契約に縛り付けておくことは労働者の身体の自由を不当に制限するものとなり不都合な結果になるからです。
すなわち「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」で働く労働者であっても「やむを得ない事由」がある限り、契約期間の途中で退職しても退職する労働者に債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)は一切生じないということになるのです。
したがって、仮にその労働者が「やむを得ない事由」を理由に退職したことによって使用者(会社)に損害が発生したとしても、使用者(会社)側に退職した労働者に対する損害賠償請求権が発生する余地はありませんから、使用者(会社)側が「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言って来たとしても、そのような主張は無視して退職しても全く問題ない、ということになります。
ウ)「契約期間の初日から1年が経過」した場合
また「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」で働く労働者には「契約期間の初日から1年が経過」した後は契約期間が満了する「前」であっても「いつでも」「自由に」退職することが認められています(労働基準法137条)。
期間の定めのある労働契約(中略)を締結した労働者(中略)は、(中略)民法第628条の規定にかかわらず、当該労働契約の期間の初日から一年を経過した日以後においては、その使用者に申し出ることにより、いつでも退職することができる。
(※注釈:ただし厚労大臣が定める高度な専門的知識を有する労働者や満60歳以上の労働者は適用除外されています)
この条文は、有期労働契約(期間の定めのある雇用契約)は最長で3年まで(専門的な知識等を有する職種については5年)認められていますが(労働基準法14条)、3年(または5年)という長期にわたって労働者をしばりつけることは酷な面もあることから「契約期間の初日から1年」が経過すれば労働者の意思で自由に退職することを認めよう、という趣旨で設けられた規定です。
すなわち、たとえ「期間の定めのある雇用契約(有期労働契約)」として働く労働者であっても「契約期間の初日から1年」が経過した後であれば、労働者の一方的な意思表示によって退職しても、使用者(会社)に対して債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)は発生しないということになるわけです。
したがって、仮にその労働者が「契約期間の初日から1年が経過したこと」を理由に退職したことによって使用者(会社)に損害が発生したとしても、使用者(会社)側に退職した労働者に対する損害賠償請求権が発生する余地はありませんから、使用者(会社)側が「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言って来たとしても、そのような主張は無視して退職しても全く問題ない、ということになります。
例外的に労働者が退職したことを理由とした使用者(会社)からの損害賠償請求が認められる場合
以上のように、労働者には法律で「退職の自由」が認められていますから、法律に準拠して退職をしている限り、たとえ使用者側に退職による損害が生じたとしても、その損害について労働者に賠償しなければならない義務は生じません。
ただし、以下の(1)~(5)に挙げるようなケースでは、労働者が退職することで使用者(会社)に発生した損害を、退職した労働者が賠償しなければならない義務が生じることもありえますので注意が必要です。
(1)「期間の定めのない雇用契約」で2週間の予告期間を置かずに退職する場合
先ほど説明したように「期間の定めのない雇用契約(無期労働契約)」の場合には退職希望日の2週間前までに退職届(退職願)を提出するなどして退職の意思表示を行えば法律上有効に退職の効果は生じることになりますので(民法627条)、退職する労働者に債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)が発生する余地はありません。
しかし、労働者が2週間の予告期間を置かずに退職してしまった場合には結論が異なります。
なぜなら、労働者が退職の意思表示を行って2週間が経過しない間に退職してしまった場合には、民法627条の要件を満たさない状態で退職することになりますから、労働者の故意(又は過失)によって雇用契約に違反して仕事を辞めることになってしまうからです。
たとえば、「期間の定めのない雇用契約」で働く労働者が6月30日で退職したい場合には6月16日までに退職届(退職願)を提出するなどして退職の意思表示を行えば問題ありませんが、仮に6月20日に退職届(退職願)を提出し6月30日で退職してしまった場合には、その労働者は10日間しか予告期間を置いていないことになりますので、その労働者は故意(又は過失)によって退職の予告期間が4日間少ない状態で辞めることになるわけです。
このようケースで、仮にその労働者の退職を原因として使用者(会社)に何らかの損害が発生した場合には、その使用者(会社)に発生した損害は労働者の退職と因果関係がある限り、労働者の契約違反行為または労働者の故意(又は過失)によって発生した損害ということになり、労働者に債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)が発生する余地が生じてしまいます。
すなわち、「期間の定めのない雇用契約」で働く労働者が2週間の予告期間を置かずに退職してしまった場合には、使用者(会社)に退職した労働者に対する損害賠償請求権が法律上有効に生じる余地がありますので、退職する際に使用者(会社)側から「今退職したら損害賠償請求するぞ!」と言われた場合には、それを一切無視することは危険な場合もあるということになるわけです。
(2)「期間の定めのある雇用契約」で「やむを得ない事由」がないのに契約期間の途中で退職する場合
先ほどの(イ)で説明したように「期間の定めのある雇用契約」で働く労働者は民法628条によって「やむを得ない事由」がある場合にはいつでも自由に退職することが認められていますが、「やむを得ない事由」が「ない」場合には原則どおり契約にしたがって雇用契約期間が満了するまで就労しなければならない雇用契約上の義務を負担していることになります。
そのため、もし仮に「期間の定めのある雇用契約」で働く労働者が「やむを得ない事由」が「ない」にもかかわらず契約期間の途中で退職し、それによって使用者(会社)側に何らかの損害が発生した場合は、その労働者は雇用契約違反として債務不履行責任(民法415条)に基づく損害賠償債務を使用者(会社)側に対して負担しなければならないことになるのです。
例えば、もし仮に「やむを得ない事由」が「無い」のに労働者が契約期間の途中で退職し、それを原因として使用者(会社)側に何らかの損害が発生した場合、その損害と労働者の退職に因果関係がある範囲においてその労働者は使用者(会社)側にその損害を賠償しなければならなくなってしまう余地もあることになります。
このように「期間の定めのある雇用契約」で「やむを得ない事由」が「無い」にもかかわらず契約期間の途中で退職した場合には、使用者(会社)側に労働者の債務不履行に基づく損害賠償請求権が発生する余地がありますので、そのようなケースでは退職する際に使用者(会社)側から「今退職したら損害賠償請求するぞ!」と言われた場合に、それを一切無視することは危険な場合もあるということになります。
(3)「期間の定めのある雇用契約」で「やむを得ない事由」があって退職するがその「やむを得ない事由」が労働者の過失によって発生している場合
また、仮に「やむを得ない事由」があったとしても、その「やむを得ない事由」がもっぱら退職する労働者の過失に基づく場合には、民法628条後段に規定されているように退職する労働者に損害賠償責任が発生する余地があります。
当事者が雇用の期間を定めた場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる。この場合において、その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるときは、相手方に対して損害賠償の責任を負う。
たとえば、わき見運転で事故を起こし助手席に同乗していた親に後遺症が残って介護が必要になりその親の介護のために退職する場合などです。
このようなケースでは「親の介護」という「やむを得ない事由」があるため契約期間の途中で退職すること自体は民法628条で認められますが、その原因は「わき見運転」という労働者の「過失」によって生じたものと言えるため、その労働者が「やむを得ない事由」を理由に退職することで使用者(会社)側に何らかの損害が発生した場合には、その退職する労働者が民法628条後段の規定に従って会社の損害を賠償しなければならない余地もありえるということになります。
したがって、このようなケースで退職する際に使用者(会社)側から「今退職したら損害賠償請求するぞ!」と言われた場合にも、それを一切無視することは危険な場合もあるということになります。
(4)「期間の定めのある雇用契約」で「契約期間の初日から1年」が経過していないのに契約期間の途中で退職する場合
先ほどの(ウ)で説明したように「期間の定めのある雇用契約」で働く労働者であっても「契約期間の初日から1年が経過」した後であれば「いつでも」「自由に」退職することが認められていますが(労働契約法137条)、契約期間の初日から1年が経過する「前」は原則どおりその会社で働かなければならない雇用契約上の義務を負担しているということになります。
そのため、もし「契約期間の初日から1年が経過」していないにもかかわらず契約期間の途中で退職してしまった場合には、その労働者は雇用契約違反となり債務不履行責任(民法415条)を負担しなければならなくなってしまうでしょう。
たとえば、契約期間が3年として働いている労働者が働き始めてから10か月が経過した時点で会社の承諾なく一方的に退職届(退職願)を提出し会社を辞めてしまったことによって会社に何らかの損害が生じた場合は、その労働者の退職と会社の損害に因果関係がある範囲において、その退職した労働者が会社に対して債務不履行責任(民法415条)を負担しなければならない余地もあるということになります。
このように「期間の定めのある雇用契約」で「契約期間の初日から1年経過する前」に退職する場合には、使用者(会社)側に債務不履行に基づく損害賠償請求権が生じる余地もあるといえますので、そのようなケースで「今退職したら損害賠償請求するぞ!」と言われた場合に、それを一切無視することは危険な場合もあるということになります。
(5)「期間の定めのある雇用契約」で「黙示の更新」があった後に2週間の猶予期間を置かずに退職する場合
「期間の定めのある雇用契約」で契約期間が満了した場合には、その有期労働契約は自動的に解除されることになりますが、労働者がその契約期間が満了した後もそのまま引き続き従前の職場で就労を継続し、それに対して使用者(会社)側が何らの異議も申入れしなかった場合には、従前の契約と同一の条件で契約が更新されたもの(黙示の更新)として引き続き雇用関係が継続することになります(民法629条)。
雇用の期間が満了した後労働者が引き続きその労働に従事する場合において、使用者がこれを知りながら異議を述べないときは、従前の雇用と同一の条件で更に雇用をしたものと推定する。この場合において、各当事者は、第627条の規定により解約の申入れをすることができる。
この点、この「黙示の更新」によって更新された契約は「従前の雇用と同一の条件」となりますので、賃金や労働時間などの労働条件は従前の「期間の定めのある雇用契約」のものがそのまま引き継がれることになりますが、更新された後の契約は「期間の定めのある雇用契約」ではなく「期間の定めのない雇用契約」に変更されることになります(民法629条1項後段)。
したがって、この「黙示の更新」があった後は「契約期間」自体がありませんから、退職する場合には民法627条に基づいて2週間の予告期間さえ置いておけば「いつでも」退職の意思表示を行って退職することが可能です。
たとえば「契約期間3年」の有期労働契約で3年間勤務し期間が満了した後もそのまま引き続き就労を継続し会社の方も何も言わずにそのまま勤務が認められた場合において、その1年後に退職する場合には退職希望日の2週間前までに退職届(退職願)を提出するなどして退職の意思表示を行えば「やむを得ない事由」がなく「黙示の更新の初日から1年が経過」していなくても「いつでも」「自由に」退職することができるわけです。
その反面、その「黙示の更新」がなされた後に、2週間の猶予期間を置かずに退職した場合には、先ほどの(1)で説明したように退職する労働者に債務不履行責任や不法行為責任が発生する余地がありますから、そのようなケースでは会社側から「今退職したら損害賠償請求するぞ!」と言われた場合に、それを一切無視することは危険な場合もあるということになります。
退職届(退職願)を提出した際に「損害賠償請求するぞ!」と言われた場合の対処法
以上のように、退職する際に「今辞めたら損害賠償請求するぞ!」と言われたとしても法律で労働者に「退職の自由(民法627条,同628条,労働基準法137条)」が保障されていますので、そのような会社の主張は無視して退職して構いません。
ただし、場合によっては会社側の損害賠償請求に法律上(または雇用契約上)の正当性がある場合もありますので(前述の(1)~(5))、先ほど説明した(1)~(5)に該当する事実があったり使用者(会社)側の主張する損害賠償請求の主張に不安がある場合には、早めに弁護士や司法書士に相談し助言を受けた方がよいと思います。
なお、これまで説明したことを前提として明らかに使用者(会社)側の「損害賠償請求するぞ!」という主張に法律上(または契約上)の理由がないことが明らかな場合であるにもかかわらず、会社側が執拗に「辞めたら損害賠償請求するぞ!」と引き下がらない場合には、使用者側が労働者の退職を妨害する意図をもって法律上(または契約上)の根拠なくそういった主張をしているだけ(単なる脅し)と考えられますので、以下のような手段を用いて具体的に対処する必要があります。
(1)郵送で退職届(退職願)を送り付ける
退職する労働者に債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)が存在していないことが明らかであるにもかかわらず、使用者(会社)側が「退職したら損害賠償請求するぞ!」と主張して退職届(退職願)の受け取りを拒否しているような場合は、退職届(退職願)を郵送で会社に送り付けて退職の効力が発生した日以降は出社しないようにするのも一つの対処法として有効です。
退職は「退職します」と口頭で通知するか、もしくは退職届(退職願)を提出し、その意思表示が受理権限のある者に到達した時点で有効に成立しますので、仮に退職届(退職願)の受け取りを拒否されたとしても退職の効果は法律上有効に発生することになります。
しかし、後に裁判になった場合に会社側が「退職届(退職願)は受け取っていない」などと反論してきた場合は労働者側で「退職届(退職願)を提出した」ということを立証しなければなりませんから、会社側が退職届(退職願)の受け取りを拒否しているようなケースでは「退職届(退職願)を提出した」という事実の証拠が残らない”手渡し”よりも、客観的な証拠の残る”郵送”で送付しておく方が無難です。
具体的には、提出する退職届(退職願)のコピーを取ったうえで特定記録郵便などで送付しておけば問題ありませんが、将来的に裁判に発展することが確実なケースでは内容証明郵便で退職届(退職願)を送り付ける方が無難かもしれません。
なお、この場合に提出する退職届(退職願)は以下のようなもので差し支えありません。
【退職届(退職願)の記載例】
株式会社○○
代表取締役○○ ○○ 殿
退職届
私は、一身上の都合により、△年△月△日をもって退職いたします。
以上
〇年〇月〇日
東京都〇区○○一丁目〇番〇号
○○ ○○ ㊞
(2)労働基準監督署に対して労働基準法違反の申告を行う
先ほども説明したように、「退職の自由」を規定した法律(民法627条,同628条,労働基準法137条)に従って退職を申し入れている限り労働者に債務不履行責任(民法415条)や不法行為責任(民法709条)は生じませんから、使用者(会社)側から「辞めたら損害賠償請求するぞ!」といわれたとしてもそのような主張に法律上(または契約上)の根拠は存在しません。
そのため、そのような主張をして退職を思いとどまらせようとしている使用者(会社)は法律上(または契約上)の根拠なく労働者の退職を妨害していることになりますが、そういったケースではその使用者(会社)は労働者に対して法律上(または契約上)の根拠なく労働を強制しているということも言えます。
そうすると、その使用者(会社)は強制労働の禁止を規定した労働基準法第5条に違反することになりますから、労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行うことが可能になるものと考えられます(労働基準法第104条1項)。
使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行い、監督署から勧告等が出されれば、会社の方でも根拠のない損害賠償請求の予告や就労の継続を求める行為を止める可能性もありますので、退職届(退職願)を提出した後も会社側が退職を拒絶し就労を強要する場合には労働基準監督署への申告も考えた方がよいのではないかと思います。
なお、この場合に労働基準監督署に提出する労基法違反の申告書は、以下のような文面で差し支えないと思います。
【労働基準法104条1項に基づく労基法違反に関する申告書の記載例】
労働基準法違反に関する申告書
(労働基準法第104条1項に基づく)
○年〇月〇日
○○ 労働基準監督署長 殿
申告者
郵便〒:***-****
住 所:東京都〇〇区○○一丁目〇番〇号○○マンション〇号室
氏 名:申告 太郎
電 話:080-****-****
違反者
郵便〒:***-****
所在地:東京都〇区〇丁目〇番〇号
名 称:株式会社○○
代表者:代表取締役 ○○ ○○
申告者と違反者の関係
入社日:〇年〇月〇日
契 約:期間の定めのない雇用契約
役 職:特になし
職 種:製造
労働基準法第104条1項に基づく申告
申告者は、違反者における下記労働基準法等に違反する行為につき、適切な調査及び監督権限の行使を求めます。
記
関係する労働基準法等の条項等
労働基準法第5条
違反者が労働基準法等に違反する具体的な事実等
・申告者は〇年〇月〇日に上司である◆◆に2週間後の◇月◇日をもって退職する旨記載した退職届を提出したが、違反者は「今辞めたら損害賠償請求するぞ!」と主張し、事実上退職を妨害した。
・申告者は民法627条に基づいて2週間の予告期間を置いた退職の意思表示であることを説明し理解を求めたが、「繁忙期の今辞めたら会社に損害が出るのはわかるだろう!」と言うのみで執拗な就労の強要が止まないため〇年〇月〇日付けで作成した退職届を特定記録郵便で違反者に送付し、当該退職届は同年〇月〇日に違反者に配達された。しかしながら違反者は申告者の自宅に押し掛けるなどしていまだに復職を迫っている。
添付書類等
1.〇年〇月〇日に上司の◆◆に提出した退職届の写し 1通
2.〇年〇月〇日付けで特定記録郵便で送付した退職届の写し 1通
備考
特になし。
以上
(3)その他の対処法
以上の方法でも解決しない場合には、労働局に紛争解決援助の申し立てを行ったり、自治体や労働委員会の「あっせん」を利用したり、弁護士会と司法書士会が主催するADRを利用することも検討する必要があります。
また、案件によっては弁護士や司法書士に個別に依頼して裁判手続きで解決を図る必要がありますので、自力での解決が困難であることがわかった時点で早めに弁護士や司法書士に相談するよう心掛けてください。
なお、これらの対処法を取る場合の具体的な相談場所等についてはこちらのページでまとめていますので参考にしてください。