採用選考で、求職者に健康診断を義務付けたり健康診断書の提出を義務付ける企業が稀にあるようです。
たとえば、採用面接の前に企業が指定する医療機関での健康診断を義務付けたり、応募者全員に血液検査やアレルギー検査を実施したり、エントリーシートの提出時に健康診断書の添付を義務付けたりするようなケースが代表的です。
しかし、健康診断の結果がその企業における業務の適性や能力に必ずしも関係があるとは言えませんから、健康診断を義務付けることに合理的な理由はないように思えます。
また、本人の適性や能力とは関係のない健康状態を収集すること自体が応募者のプライベートな部分を必要性もなく調査することにつながりますから、プライバシーの侵害とも思えてしまいます。
では、このように採用選考の際に健康診断を義務付けたり健康診断書の提出を求める企業の態様は許されるものなのでしょうか。
また、実際の採用選考で企業側から健康診断の受診や健康診断書の提出を求められた場合、どのように対応すればよいのでしょうか。
採用選考における健康診断の受診や健康診断書の提出の義務付けは採用差別(就職差別)につながる
このように、採用選考の過程で健康診断の受診を強制したり健康診断書の提出を義務付ける企業があるわけですが、結論から言えばこのような行為は採用差別(就職差別)につながります。
なぜなら、求職者の健康状態は必ずしもその企業の業務に必要となる能力や適性に関係するものではなく、それを選考基準として反映させれば、業務とは関係のない事情で不当に求職者が差別され「採用の機会均等」が損なわれる可能性があるからです。
もちろん日本は自由主義経済体制を採用しているので「契約自由の原則」は憲法から導かれる基本原理であり企業には「採用の自由」が保障されていますから、その企業が採用選考に際してどのような属性の労働者を募集し採用するかはその企業の自由選択に委ねられることになります。
しかしその「採用の自由」も無制約なものではありません。憲法は職業選択の自由(憲法22条)や法の下の平等(憲法14条)などを保障しており「就職の機会均等」が損なわれるような採用活動は許されないからです。
企業の「採用の自由」もそれら個人の基本的人権の保障の枠内で許されるものに過ぎませんから、求職者の「就職の機会均等」を損なうような基準で採用選考を行えば、それは採用差別(就職差別)の問題を惹起させるのは当然でしょう。
この点、採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付ける行為は、一見するとその企業の業種や職種への適性を判断するうえで重要な資料になり得るとも思えます。
しかし、健康診断の結果がすべての職種や業務に必要な要素となるわけではありませんから、職種や業務に関係なく一律に健康診断を求めるのは合理的ではありません。
たとえば、車を運転する業務で失神等の発作が生じないか確認するための健康診断を義務付けるのは一定の範囲で合理性があると言えるかもしれませんが、車を運転しない事務職や営業職などの職種の求職者まで健康診断を義務付ける必要性があるのか疑問が生じます。
また、食品を扱う会社でアレルギー反応による症状を未然に防ぐためアレルギーに関する健康診断を義務付ける行為は一定の範囲で合理性があると言えますが、その場合でも防塵服やゴム手袋などの着用でアレルギー反応を防ぐこともできるかもしれませんから、その対処をしないで健康診断を義務付けるのは合理性がないとも言えます。食品を扱う会社であっても、事務職や営業職など業務で直接的に食品に触れる機会のない職種もありますから、そうしたアレルギー反応のリスクのない職種希望者にまで健康診断を義務付ける必要性はないという指摘もできるでしょう。
さらに言えば、事前の健康診断が必要になる業種や職種が仮にあったとしても、それは採用後の配属の際に診断すればよいことであって、採用が決まっていない採用選考の段階で応募者全員に一律に健康診断を強制させる合理的な理由もないとも言えます。
このように、採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付ける行為は、その業種や職種、あるいはその健康診断の種類によっては合理性があると判断できるケースもあるかもしれませんが、たとえそうした職種や業務であっても代替措置によって回避することは可能ですし、求職者全員にそれを強制しなければならない合理性も見当たりません。
そうであれば、その健康診断によって収集される求職者の健康状態を採否の判断に利用することは、採用選考に本来必要とされない健康上の情報で採否を決定することになり、合理的な理由なく就職の機会が制限されることにつながりますから、それは差別であるとの指摘も可能です。
ですから、採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付ける行為は、求職者の「就職の機会均等」を妨げるものであって採用差別(就職差別)につながるという指摘ができると考えられるのです。
労働安全衛生規則第43条の「雇入時の健康診断」の規定は労働者を雇い入れた後の健康診断を義務付けるもの
なお、雇い入れた労働者の健康診断を義務付けた労働安全衛生規則第43条の規定を根拠に採用選考での健康診断の必要性を正当化する意見がありますが、この労働安全衛生規則第43条の「雇入時の健康診断」の規定は、採用が決まり労働契約が締結された後の労働者の健康管理のために義務付けられた規定であり、採用段階で求職者の健康状態をチェックするためのものではありません。
【労働安全衛生規則第43条】
事業者は、常時使用する労働者を雇い入れるときは、当該労働者に対し、次の項目について医師による健康診断を行わなければならない。ただし、医師による健康診断を受けた後、3月を経過しない者を雇い入れる場合において、その者が当該健康診断の結果を証明する書面を提出したときは、当該健康診断の項目に相当する項目については、この限りでない。
一 既往歴及び業務歴の調査
二 (以下省略)
ですから、この労働安全衛生規則の規定を根拠に採用審査における健康診断を正当化させることはできないと考えられます。
企業側に差別の意図がなかったとしても健康診断を義務付ける行為自体が採用差別(就職差別)性を惹起させる
この点、企業側に差別の意図がなければ健康診断を義務付けてもよいのではないか、という意見があるかもしれませんが、企業側に差別の意図があろうとなかろうと結論は変わりません。
たとえ企業側に差別の意図がなかったとしても、その健康診断の結果を面接官や人事担当者が把握すれば、その健康診断の結果がその心証に少なからぬ影響を与えることになり、その健康診断の結果の情報を全く除外して採否の判断を下すのは事実上困難になってしまうからです。
いったん面接官や人事担当者が健康診断の結果を目にすれば、その情報を意識から完全に排除することはできませんから、そこに偏見や予断が生まれる可能性がある以上、求職者の「就職の機会均等」が損なわれてしまう可能性を否定できなくなってしまいます。
ですから、採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付ける行為は、採用差別(就職差別)につながる可能性が惹起される以上、たとえ企業側に差別の意図がなかったとしても、許されるものではないと考えるべきものだと言えるのです。
採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付けることは職業安定法の「求職者等の個人情報の取り扱い」規定に抵触する可能性も指摘できる
このように、採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付ける行為は、採用差別(就職差別)につながる可能性を指摘できますが、これとは別に職業安定法で義務付けられた「求職者等の個人情報の取り扱い」規定に抵触する可能性も指摘できます。
職業安定法第5条の4は、労働者の募集を行う者等が収集する求職者の個人情報について「その業務の目的の達成に必要な範囲内で収集・保管し使用すること」としていますので、その範囲を超えた個人情報の収集や保管はそもそも法的に認められていません。
この点、先ほど説明したように、求職者に一律に健康診断を義務付けなければならない合理的な理由は考えられませんから、それを義務付けて求職者の健康情報を収集する行為はこの職業安定法第5条の4に抵触する可能性を指摘できるでしょう。
もちろん、業種や職種によっては健康診断に合理性が認められるケースもゼロではありませんから、その業種や職種によってはこの職業安定法上の違法性を指摘するのは難しいかもしれません。
しかし、すべての求職者に健康診断や健康診断書の提出を義務付けている会社があるとすれば、合理性のない健康診断によって不当に個人情報を収集されている求職者が存在することになりますから、この職業安定法上の違法性を指摘することができるものと考えられます。
採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付けられた場合の対処法
以上で説明したように、採用選考で健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付ける行為は採用差別(就職差別)の問題だけでなく職業安定法上の違法性を指摘することもできますから、合理的な理由のある職種や業種でない限り、基本的には認められるべきものではないと言えます。
もっとも、実際の採用選考の際に健康診断の受診や健康診断書の提出を義務付けられた場合には、求職者の側で適当な対応を取らなければなりませんので、その場合にどのような対応を取り得るかが問題となります。