専門的な技術や技能を擁する会社では、その会社の独自技術や技能、独自の営業ノウハウ等が同業他社に流出して会社の利益が阻害されるのを防ぐために、「退職後〇年間は同業他社に就職しない」などと記載された誓約書を労働者に交付して署名を求めることがあります。
このような誓約は競業避止義務に関する誓約と呼ばれますが、仮に労働者がその誓約書に自らの「自由な意思」で署名した場合には、その競業避止義務に関する誓約が労働契約の内容となって労働者を拘束することになり、仮にその誓約に反して同業他社に就職すれば労働契約違反として損害賠償請求の対象となってしまいますから、労働者は事実上、退職後の一定期間は同業他社に就職できなくなってしまうでしょう。
このような労働者の不利益を考えると、このような誓約をむやみやたらに有効と判断すべきではないことが分かります。このように退職後の同業他社への自由な就職を制限する誓約はそもそも憲法22条で保障された職業選択の自由を制限するものと言えるからです。
そのため、このような競業避止義務に関する誓約は、一般的に「必要かつ合理的な範囲」に限って認められると解されており、その範囲を越えてまで誓約された競業避止義務は無効と判断されるのが通常です。
この点、具体的にどのような競業避止義務に関する誓約が「必要かつ合理的な範囲」となるかが問題となりますが、一般的には「競業避止義務の目的と必要性」やその競業避止に関する「期間」「地域」「技能やノウハウの有無」「退職前の地位」「代替措置の有無」など6つの要素を総合的に考慮して判断されると考えられています(※詳細は→退職後の同業他社への就職を禁止する誓約が無効になる場合とは)。
つまり、この6つの要素のうち、一つでも満たさない事情があるケースでは、その誓約自体が無効と判断される余地が生じうるということになるわけです(※ただし、最終的にはそれらすべての要素を総合的に考慮することになりますので、一部の要素だけあったとしても無効とは判断されない可能性もあります)。
ところで、これらの要素のうち法律に詳しくない一般の人でも容易に判断できるものとしては、「代償措置の有無」が挙げられます。
代償措置は、退職後の同業他社への就職を制限する代わりとして、会社側から金銭補償やその他の代替え案が提示された事実があるかという点で誰でも容易に判断することができますから、そのような競業避止義務に関する誓約の有効性を判断する場合には、まず最初にチェックすべきポイントとして理解してもよいかもしれません。
では、もし仮に会社からの求めに応じて「退職後〇年間は同業他社に就職しない」旨の誓約書に自らの「自由な意思」で署名し、退職後にその誓約書の存在を根拠にして同業他社への就職が制限されている場合において、会社から何らの代償措置や補償も行われていなかった場合、労働者は具体的にどのように対処することができるのでしょうか。
競業避止義務に関する誓約で「代償措置がない」場合の具体例
このように、たとえ「退職後〇年間は同業他社に就職しない」旨の誓約書に自らの「自由な意思」で署名した事実がある場合であっても、その誓約の代償措置が何らなされていないケースでは、その競業避止義務に関する誓約自体の無効を主張できるケースもあるといえます。
この点、具体的にどのような「代償措置」があった場合にその誓約が有効と判断され、またその逆にどの程度の「代償措置」がなかった場合または不十分な場合にその誓約が無効と判断され得るのか、という点が問題となりますが、具体的には以下のようなものがあげられます。
ア)補償金等の支給がない又は不十分な場合
労働者が「退職後〇年間は同業他社に就職しない」旨の誓約書に自らの「自由な意思」で署名している場合であっても、その誓約の代償として補償金の支給など金銭的な支払いが全くなされていなかったり、その補償金の支払いがなされていてもその金額が不十分である場合には、その誓約自体が無効性を帯びると言えます。
なぜなら、先ほども述べたように、退職後の競業避止義務に関する誓約はそれ自体が憲法22条で保障された職業選択の自由を制限する性質を持ち、労働者の人権を制限する方向で作用するからです。
先ほども述べたように、退職後の競業避止義務に関する誓約はもっぱら会社における専門技術・技能等の流出を防ぐという会社側の利益のためだけに利用されるものですから、会社の利益のためだけに労働者の職業選択の自由という人権をあえて制限するというのであれば、会社は平等の観点から考えてそれ相応の代償を労働者に支払うのが当然と言えるでしょう。
ですから、その誓約に際して会社側が何ら補償金を提供していなかったり、その金額が不十分な場合には、その誓約自体は無効と判断される余地が生じうると考えられるのです。
この点、具体的にどの程度の金額が支払われなければ「代償措置が不十分」と判断されるかはその事案ごとに判断するしかありませんので、個別のケースごとに弁護士等の専門家の助言を受けることも検討する必要があるかもしれません。
イ)退職金の上乗せ等の措置がない又はその金額が不十分な場合
競業避止義務に関する誓約に関する代償措置としては、補償金の支払い以外にも退職金の上乗せの場合もありますので、その退職金の上乗せが全くなかったり、それがあっても金額が妥当なものではない場合には、その競業避止義務に関する誓約は無効と判断される余地があると言えます。
なお、この場合も具体的な金額はケースごとに判断するしかありませんので、個別の事案に応じて弁護士等の専門家の助言を受ける必要があるかもしれません。
ウ)その他の代償措置がない又は不十分な場合
以上以外にも、会社によって金銭または金銭以外の代償措置が設けられている場合もありますので、その事案ごとにその代替措置が適当かという点を検討する必要があります。
「代償措置」が不十分なまま退職後の同業他社への就職を制限されている場合の対処法
以上で説明したように、たとえ労働者が自らの「自由な意思」で「退職後〇年間は同業他社に就職しません」などという誓約書にサインしている場合であっても、会社側がその退職後の就職制限に代わる代償措置を全くしていなかったり、していてもその程度が不十分である場合には、その競業避止義務に関する誓約自体の無効性を主張して就職の制限を止めるよう求めることもできるものと考えられます。
もっとも、労働者がそのような誓約書にいったん署名してしまえば、会社側はその誓約を根拠に退職後の同業他社への就職を強権的に制限してくるのが普通ですので、その場合の具体的な対処法が問題となります。
(1)代償措置が不十分な場合は競業避止義務に関する誓約が効力を生じないことを書面で通知する
代償措置が不十分なままの状態で退職後の同業他社への就職を制限されている場合は、そのような状態で競業避止義務に関する誓約を強制できる権限が会社側にないことを説明した書面を作成し会社に通知してみるというのも一つの対処法として有効な場合があります。
先ほども述べたように、代償措置が不十分なまま退職後の同業他社への就職を制限する場合には、憲法22条で保障された職業選択の自由の観点から鑑みて「退職後〇年間は同業他社に就職しない」との誓約自体が「必要かつ合理的な範囲を超える」ものとして無効性を帯びることになりますから、労働契約の内容としての競業避止義務の効力が生じていないということが言えます。
そうすると、労働契約上の競業避止義務契約という権限が生じていない以上、会社はその誓約を根拠にして労働者に退職後の同業他社への就職を制限することはできなくなりますが、代償措置もロクにしないまま労働者の職業選択の自由を奪うような会社がまともな会社とは思えませんので、口頭でいくら「同業他社への就職を制限するな」と抗議したとしてもそれを聞き入れてくれる可能性は低いと思います。
しかし、書面という形で正式に抗議すれば、将来的な裁判への発展などを警戒して態度を改める会社もありますので、書面という形で通知しておくことも意義があると言えるのです。
なお、この場合に会社に通知する書面の文面は以下のようなもので差し支えないと思います。
株式会社 ○○
代表取締役 ○○ ○○ 殿
競業避止義務に関する誓約の無効確認通知書
私は、〇年〇月〇日、一身上の都合によろ貴社を退職いたしましたが、退職後の同年〇月、◇◇株式会社に入社したところ、貴社の人事担当○○氏から電話があり「同業他社への就職は在職中に誓約した競業避止義務に違反するので直ちに退職しない限り損害賠償請求も辞さない」との連絡を受けました。
この退職後の競業避止義務について○○氏からは、私が貴社に在職中「退職後1年間は同業他社に就職しない」旨記載された誓約書に署名押印したうえで貴社に差し入れている事実があることから、その誓約に反して同業を営む◇◇株式会社で勤務することは労働契約に加えられた競業避止義務に違反するとの説明がなされております。
この点、競業避止義務に関する誓約は、その誓約自体に労働者の自由な就職を一定期間制限する内容が含まれますから、憲法22条で保障された職業選択の自由を制限する性質があることに鑑みても、無制限にその自由を制限すべきではなく、その競業を禁止する範囲も必要かつ合理的な範囲に限定されるものと考えるべきですから、使用者が労働者に対して退職後の競業避止義務を課す場合には、その代償措置を十分に行うことが要請されるのは当然と考えられます。
しかしながら、そのような誓約書が実在するかは不明ですが、私は、貴社からその競業避止義務を負担することについて金銭的補償やその他の補償を受けた事実は一切ありませんから、仮にそのような誓約が存在したとしても、その競業避止義務に関する誓約は必要かつ合理的な範囲を超えているものと評価できるため効力を生じないと考えられます。
そうであれば、仮にかかる誓約があったとしても、かかる退職後の競業避止義務に関する誓約は労働契約の内容として効力を生じないと言わざるを得ません。
したがって、貴社の主張は契約上及び法律上の根拠を欠くものといえますから、私にかかる誓約に従わなければならない契約上及び法律上の義務が存在していないことをこの通知書で確認するとともに、貴社において当該誓約を根拠に私の退職後の就職を制限する契約上及び法律上の権限が一切ないことを通知いたします。
以上
〇年〇月〇日
〇県〇市〇町〇丁目〇番〇号○○マンション〇号室
○○ ○○ ㊞
※実際に送付する場合は会社に通知が到達した証拠を残しておくため、コピーを取ったうえで普通郵便ではなく特定記録郵便など配達記録の残される郵送方法を用いて送付するようにしてください。
(2)その他の対処法
上記のような書面を通知しても会社が競業避止義務に関する誓約を根拠に同業他社への就職を妨害する場合、または最初から他の方法で対処したいという場合は、労働局の紛争解決援助の申し立てを行ったり、労働委員会の主催する”あっせん”の手続きを利用したり、弁護士や司法書士に相談して裁判所の裁判手続などを利用して解決する必要がありますが、それらの方法については以下のページを参考にしてください。
(3)労働基準監督署に相談して解決できるか
なお、このような誓約を根拠に退職後の同業他社への就職を妨害する行為について労働基準監督署で解決できるかという点が問題となりますが、労働基準監督署は”労働基準法”とそれに関連する命令等に違反する事業主を監督する機関に過ぎず、個別の労働契約に関するトラブルについては行政権限が与えられていませんので、退職後の競業避止義務といった個別の労働契約の問題については介入しないのが一般的です。
ですから、このような案件に関しては、弁護士に相談して示談交渉や訴訟を利用するか、労働局の紛争解決手続きや都道府県労働委員会のあっせん手続きを利用して解決を図るしかないと思います。