自分では退職する意思が全くないにもかかわらず、上司や会社の役員に促されて退職届(退職願)を提出させられ、その本心から提出したものではない退職届(退職願)を根拠に、後日になって会社から退職を迫られるケースが稀に見受けられます。
たとえば、会社で何らかのミスを犯し、上司から「今回のミスは許すけど反省していることを示すために退職届(退職願)を作って提出しなさい!」と言われてあくまでも「反省の意思」を示すために退職届(退職願)を提出したものの、後日また同じミスを犯してしまったため、前回のミスの際に提出した退職届(退職願)を根拠に会社が退職の手続きを進めて会社を辞めさせられるようなケースです。
このようなケースでは、退職届(退職願)を提出した労働者本人に「退職する意思」は全くありませんが、自らの意思で退職届(退職願)を提出した事実があることから、その退職届(退職願)の有効性に争いが生じます。
では、このように本心からではない退職届(退職願)提出してしたことを理由に退職させられてしまうような場合、その提出した退職届(退職願)を撤回することができるのでしょうか?
本心からではない退職届(退職願)は「無効」
結論から言うと、退職する意思がないにもかかわらず提出した退職届(退職願)は法的に「無効」と判断されます。
その提出した退職届(退職願)を根拠に会社が労働者を辞めさせることはできませんので、先ほどのようなケースでは労働者が以前提出した退職届(退職願)を根拠に会社から辞めるよう促されても退職しなければならない義務はないということになるでしょう。
なぜこのような結論になるかと言うと、先ほどのケースのように会社から「反省の意思を示すため」と言われて本心からではない退職届(退職願)を提出したような場合では、その提出した退職届(退職願)は民法93条の「心理留保」として扱われるからです。
意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
この「心理留保」とは、簡単に言うと”冗談”や”ウソ”のことをいいます。
たとえば好きな女性から「私のこと好き?」と聞かれた際にその女性が大好きにもかかわらず「お前のことなんか好きじゃねーよ」と回答する場合であったり、買う気がない商品を店員に「買います」と告げるような場合がこの「心理留保」にあたります。
このような「心理留保」が行われた場合、本人はその意思表示が「本心ではないこと」を自分自身で認識していますから、その意思表示を受け取る相手方を保護する必要性が生じます。
そのため、民法93条本文では、たとえ「心理留保」となる本心からではない意思表示がなされたとしても、原則としてその効力を認めることにしているわけです。
もっとも、その「心理留保」によって行われる意思表示を受けとる相手方がそれが本心からではないことをあらかじめ認識しているような場合には、その相手方を保護する必要性が生じませんし、その逆に「心理留保」による意思表示を行った本人を保護する必要性が生じます。
ですから、民法93条の但書では「相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたとき」にはその「心理留保」による意思表示を「無効」とすることにして表意者の保護を図っているわけです。
この点、これを先ほどのケースにあてはめると、退職する意思が一切ないにもかかわらず退職届(退職願)を提出した労働者の退職の意思表示は「心理留保」となりますが、それが本心ではないことを会社側も認識し「相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたとき」に該当することになるわけですから、民法93条の但書の規定によってその労働者の退職の意思表示は「無効」と判断されることになるわけです。
提出した退職届(退職願)が「無効」と判断されれば当然、その労働者の退職の意思表示自体「最初から無かったもの」として扱われますから、会社がその提出された退職届(退職願)を根拠に辞めるよう求めてきたとしても、そのような主張は一切無視して従来どおりその会社で働くことができるということになるのです。
本心からではない退職届(退職願)を根拠に退職を強要される場合の対処法
以上のように、本心からではない退職届(退職願)を提出した場合であっても、それが会社側の指示に従って提出したものである場合には、民法93条但書の規定によって「無効」と判断されますので、そのような退職届(退職願)は無効と考えて差し支えなく、会社からその退職届(退職願)を根拠に退職を求められたとしても、根拠のない退職の強要と考えて一切無視して構わないということになります。
もっとも、法律上はそう解釈されるとは言っても、会社によってはそのような法解釈など無視して一方的に退職届(退職願)が提出されていることを根拠に退職を迫るケースもありますので、そのようなケースでは具体的に行動して対処する必要があります。
(1)書面で無効を主張する
会社から指示されて提出した本心からではない退職届(退職願)が心理留保によって無効と解釈されることを説明しても会社が退職を強要するような場合は、改めてそれが無効であることを記載した書面を会社に差し入れるというのも一つの方法として有効です。
口頭で「その退職届(退職願)は民法93条但書の規定によって無効です」と抗議して相手にされない場合であっても、書面という形で改めて抗議すれば何らかの対応をする会社も多いですし、仮に書面での抗議が不発に終わっても書面という有体物が残る形で会社と交渉していれば後で裁判になった際に「会社の行為が法的に間違っていることを説明したのに退職を強要された」ということを客観的証拠として残すことができます。
ですから、会社がどうしても引き下がらない場合は、以下のような無効確認通知書を作成し、特定記録郵便など「配達された」という事実が残される郵送方法で郵送することも考えてみる価値はあると思います。
○○株式会社
代表取締役 ○○ ○○ 殿
退職届無効確認通知書
私は、〇年〇月〇日、貴社に対して、〇年〇月〇日付けで退職する旨記載した退職届を提出いたしました。
しかしながら、当該退職届は、仕事上のミスを犯した私が上司から「反省の意思を示すためのもの」として提出を求められたものであり、その本心から退職の意思を有して退職を申し入れたものではありません。
したがって、当該退職届による退職の意思表示は民法93条の心理留保に該当し、かつ、貴社はその心理留保であることをあらかじめ知っていたわけですから、当該退職届による退職の意思表示は、同条但書によって何ら効力のない無効なものであることを本通知書によって確認させていただきます。
以上
〇年〇月〇日
〇県〇市〇町〇丁目〇番〇号○○マンション〇号室
○○ ○○ ㊞
(2)労働局の紛争解決援助手続き、自治体・労働委員会のあっせん、弁護士会・司法書士会のADR、弁護士・司法書士に裁判を依頼するなどして解決を図る
会社側がいったん提出された退職届(退職願)があることを根拠にあくまでも退職を迫る場合には、労働局に紛争解決援助の申し立てを行ったり、自治体や労働委員会の”あっせん”の手続きを利用したり、弁護士会や司法書士会が主催するADRを利用したり、それでも解決しない場合は弁護士や司法書士に依頼して裁判などで争う必要があります。
その場合の具体的な相談先はこちらのページでまとめていますので参考にしてください。
(3)労働基準監督署では相談に応じてもらえない点に注意
なお、提出された退職届(退職願)が心理留保により無効であることを会社が認めず退職を強要する場合に労働基準監督署に相談して解決することができるかという点が問題となりますが、労働基準監督署は基本的に労働基準法に違反する使用者を監督する機関であって、会社が労働者からの退職届(退職願)が心理留保で無効であることを認めないという行為は労働基準法に違反する行為にはあたりませんので、今回のような問題については労働基準監督署では具体的な対処を取らないものと考えられます。
ですから、この問題に関しては『労働問題の解決に利用できる7つの相談場所とは』のページで紹介した相談先のうち、労働基準監督署以外の機関への相談を検討する方がよいのではないかと思いますので注意してください。