賃金や残業代の未払い、違法残業、休日付与違反など、労働者として働く限り様々な労働トラブルに遭遇してしまう危険性は避けられません。
仮に勤務している仕事先で何らかの労働トラブルに巻き込まれてしまった場合、そのトラブルに適した具体的な解決方法を選択して対処することが求められますが、その中でも比較的多く利用されているのが労働基準監督署における労働基準法違反の申告にかかる手続きです。
労働基準法では、事業者に労働基準法に違反する事実がある場合に労働者から労働基準監督署に法律違反行為の申告を行う手続きが設けられていますから、その申告の手続きによって労働基準監督署における監督権限の行使を促すことができれば、労基法違反に関係する労働トラブルの解決を図ることも十分に期待できるものと考えられます。
そこでここでは、労働基準監督署に対して労働基準法違反に関する申告を行う場合の注意点や具体的な申告方法などについて解説してみることにいたしましょう。
労働基準監督署における労基法違反の申告の手続きとは
使用者(雇い主)において労働基準法に違反する事実がある場合には、労働者から労働基準監督署に対してその事実を申告し調査や監督権限の行使を求めることが認められています(労働基準法第104条1項)。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
労働基準監督署の署長には、労働基準法に基づく臨検や審問を行う権限が与えられていますし(労働基準法第99条3項)、監督署の監督官についても事業者に対して臨検や審問、書類の提出や労基法違反行為に関する刑事訴追権限が与えられていますので(労働基準法第101条1項、同条102条)、勤務している仕事先に労働基準法違反行為が見受けられる場合には、その違反行為を監督署に申告することによって監督署の調査を促すことが可能になるわけです。
事労働基準監督署長は、都道府県労働局長の指揮監督を受けて、この法律に基く臨検、尋問、許可、認定、審査、仲裁その他この法律の実施に関する事項をつかさどり、所属の職員を指揮監督する。
労働基準監督官は、事業場、寄宿舎その他の附属建設物に臨検し、帳簿及び書類の提出を求め、又は使用者若しくは労働者に対して尋問を行うことができる。
労働基準監督官は、この法律違反の罪について、刑事訴訟法に規定する司法警察官の職務を行う。
労働基準監督署の監督権限が行使されれば、その範囲で使用者(雇い主)の労働基準法違反行為も改善されることになるでしょうから、実際に被害を受けている労働トラブルが労働基準法違反に関係するトラブルである限り、この監督署への申告手続きを利用することで労働トラブルの解決を図ることも期待できることになるのです。
労働基準監督署への労働基準法違反の申告を利用するメリット
労働基準監督署への労基法違反の申告の手続きについては次のようなメリットがあります。
(1)経済的な負担が必要ない
労働基準監督署への労基法違反の申告は公的な行政機関の手続きとなるため「無料」で利用することが可能です。もちろん、労働基準監督署に行くまでの交通費は必要ですが、労基法違反の申告自体に手数料は必要ありませんので経済的負担を考える必要が一切ありません。
(2)公的な機関が関与するため全国的に平均的な対処が期待できる
労働基準監督署への労基法違反の申告では労働基準監督署という公的な機関が関与するため、全国的に平均的なレベルで解決が図れるといった点もメリットと言えます。
労働トラブルを弁護士や司法書士に依頼して裁判などで解決を図る場合には、その依頼する弁護士や司法書士の力量によって解決に差が生じる可能性がありますし、報酬も自由化されているため「ボッタクリ」の事務所に依頼してしまうとかえって損をしてしまう結果にならないとも限りません(※もちろん、そのような弁護士や司法書士はごく少数ですが…)。
しかし、労働基準監督署は行政機関ですから、どこの労働基準監督署に違法申告を行ったとしても監督署の監督官の能力云々に左右されずに解決を図ることが期待できます。
労働基準監督署への違法申告を利用するデメリット
労働基準監督署への違法行為の申告は以上のようなメリットがありますが、この申告の手続きも万能な手続きではありませんので、次のようなデメリットも存在します。
(1)労働基準法に違反していない労働トラブルは解決できない
労働基準監督署への労基法違反の申告ができるのは、その使用者(雇い主)があくまでも「労働基準法」とそれに関係する「命令(政令)等」に違反している労働トラブルに限られます。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
そのため、労働トラブルの被害に遭っていても、そのトラブルが労働基準法違反に関係しないトラブルである場合には労働基準監督署への労基法違反の申告は利用できないので注意が必要です。
たとえば「解雇予告手当の不払い」については労働基準法の20条2項に規定がありますので、勤務先で「解雇予告手当の不払い」というトラブルに見舞われている件については労働基準監督署への労基法違反の申告を利用してトラブルの解決を図ることが可能ですが、「不当解雇」については労働基準法に規定はありませんので(※解雇については労働契約法の16条に規定されています)、「不当解雇」に関するトラブルについては労働基準監督署への労基法違反の申告以外の方法を利用して解決を図る必要があります。
このように、労働基準監督署への労基法違反の申告という手続きは「労働基準法」という法律(又は労働基準法に関係する政令や省令等)に違反している労働トラブルの解決にしか利用することができないことに注意が必要と言えます。
(2)具体的な労働トラブルの救済につながらない可能性もある
先ほど説明したように、勤務している会社(個人事業主も含む)が労働基準法に違反していることによって何らかの労働トラブルに巻き込まれてしまっている場合には、労働基準監督署に労基法違反の申告を行うことができますが、その場合に労働基準監督署が行うのは、あくまでもその会社(個人事業主も含む)の労働基準法違反行為を「是正」させることであって、個々の労働者の救済までを手助けしてくれるわけではありません。
たとえば「残業代の不払い(未払い)」という労働トラブルは「賃金の支払い」について規定した労働基準法24条や「時間外手当の割増賃金」を規定した労働基準法37条に違反する「労働基準法違反行為」となりますので労働基準監督署に労基法違反の申告を行うことでその改善を図ることが見込めますが、労働基準監督署が監督権限を行使するのは、会社(個人事業主も含む)に対して「残業代の未払い状態を解消しなさい」といった勧告を行ったり、悪質なケースで検察に送検(告発)するまでに過ぎず、未払いになっている残業代を労働基準監督署が代わりに取り返してくれるわけではありません。
仮に労働基準監督署に対して労基法違反の申告を行っても、使用者(雇い主)が労働基準監督署の勧告を無視して労働基準法違反の状態を改善しない場合には、弁護士や司法書士に個別に依頼して裁判を起こすなど、労働基準監督署の申告以外の解決方法を利用して解決を図るしかありませんので、その点に留意する必要があります。
(3)必ずしも労働基準監督署が監督権限を行使してくれるわけではない
労働基準監督署に対する労働基準法違反の申告手続きは、その申告をしたからと言って必ずしも監督署が監督権限を行使してくれるわけではないという点についても十分に留意しておく必要があります。
労働基準監督署への申告手続きの根拠となっている労働基準法104条1項の条文を見ても分かりますが、法律上は「申告することができる」と規定されているだけで、その申告を受けた監督署が「監督権限を行使しなければならない」と規定されているわけではありません。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
労働者から労基法違反の申告がなされても、労働基準監督署にその申告に基づいた臨検や審問が義務付けられているわけではありませんから、調査をするかしないかはもっぱら監督署の監督官の判断にゆだねられ、監督官が「この案件は調査しなくてもいいな」と判断すれば労働基準監督署はその申告を無視することもできるわけです。
ですから、労働基準監督署に対して使用者(雇い主)の労働基準法違反行為を申告したとしても、監督官の判断によっては監督署から審問や臨検調査は行われないこともありますので、その点を十分に認識したうえで監督署への申告をするかしないかを判断する必要があります。
労働基準監督署への労働基準法違反の申告の具体的な手順
以上で説明したように、労働基準監督署への労働基準法違反の申告にはメリットとデメリットが混在しているのが実情ですが、デメリットがあるとは言っても「無料」で利用できる点は大きく、利用しない積極的な理由はありませんから、「やらない」よりは「やる」方が良いのはもちろんです。
この点、実際に労働基準監督署にどのようにして労基法違反の申告を行うかという点が問題となりますが、労働基準法上は労働基準法104条の申告に具体的な方法は定められていませんので、最寄りの労働基準監督署に出向いて(または電話して)使用者(雇い主)の労働基準法違反行為を口頭で伝えるだけでも労基法104条の申告としては有効に成立します。
しかし、労働基準監督署としても具体的にどのような「申告」がなされたのかという点を有形物の形で残しておく必要があるため、通常は申告書に申告内容を記載して提出するのが一般的です。
ですから、労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行う場合は「申告書」を作成して提出するようにした方が良いでしょう。
なお、労働基準監督署への労働基準法違反の申告の際に提出する申告書の記載例は以下のようなものを参考にA4用紙で適宜作成してください(※監督署に行けばひな型等を渡してくれるはずですので無理に申告書を作成する必要はありません)。
労働基準法104条1項に基づく申告書の記載例
労働基準法違反に関する申告書
(労働基準法第104条1項に基づく)
○年〇月〇日
○○ 労働基準監督署長 殿
申告者
郵便〒:***-****
住 所:東京都〇〇区○○一丁目〇番〇号○○マンション〇号室
氏 名:申告 太郎
電 話:080-****-****
違反者
郵便〒:***-****
所在地:東京都〇区〇丁目〇番〇号
名 称:株式会社○○
代表者:代表取締役 ○○ ○○
電 話:03-****-****
申告者と違反者の関係
入社日:〇年〇月〇日
契 約:期間の定めのない雇用契約
役 職:特になし
職 種:経理
労働基準法第104条1項に基づく申告
申告者は、違反者における下記労働基準法等に違反する行為につき、適切な調査及び監督権限の行使を求めます。
記
関係する労働基準法等の条項等
労働基準法第 35 条
違反者が労働基準法等に違反する具体的な事実等
・申告者は、〇年〇月〇日から〇年〇月〇日まで全く休日を与えられることなく違反者から就労を強制されている。
添付書類等
1.○年〇月〇日から〇年〇月〇日までのタイムカードの写し 〇通
2.○年〇月〇日から〇年〇月〇日までの給与明細書の写し 〇通
備考
本件申告をしたことが違反者に知れるとハラスメント等の被害を受ける恐れがあるため違反者には申告者の氏名等を公表しないよう求める。
以上
※赤字の部分は記載例の部分を分かりやすくするために着色にしているだけですので実際の申立書には黒色のペンを使用してください。
※なお、官公庁ではすべての書類をA4で統一していますのでプリントアウトの際は極力A4用紙を使用するようにしてください。
労働基準監督署に労基法違反の申告を行ったことを理由にパワハラなどの報復を受ける危険性はあるか?
以上のように、労働基準監督署に労基法違反の申告を行う場合は申告書を作成しそれを監督署に提出すれば足りますが、気になるのが労働基準監督署に労基法違反の申告を行ったことを理由として会社(個人事業主も含む)から解雇や減給などの報復措置がなされたり、パワハラなどの嫌がらせを受けることがないか、という点です。
勤務している会社(個人事業主も含む)において発生している労働基準法に違反する行為を監督署に申告するということは、使用者(雇い主)の側からすれば使用者(雇い主)に楯突く反抗的な行為と受け止められることは避けられません。
そのため、監督署に申告したことを理由として報復として自分が職務上の不利益を受けてしまうことが懸念されるわけですが、労働基準法104条の2項では労働者が労基署への申告をしたことを理由として解雇その他の不利益な処分をすることが明確に禁止されており、これに違反して使用者(労働者)が労働者に不利益処分を加えた場合には「6か月以上の懲役または30万円以下の罰金」の刑事罰が科されることになっています(労働基準法第119条1号)。
したがって、使用者(雇い主)がよほど悪質な会社でもない限り、監督署に申告をしたことを理由として不利益処分を受ける恐れはないのではないかと思われます。
使用者は、前項の申告をしたことを理由として、労働者に対して解雇その他不利益な取扱をしてはならない。
次の各号の一に該当する者は、これを6箇月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。
一 (中略)第104条第2項の規定に違反した者
二(以下省略)
なお、仮に労働基準監督署に労基法違反の申告をしたことを理由として使用者(雇い主)から解雇や減給、配転など不当な不利益処分を受けた場合には、その不利益な処分を受けたこと自体を労働基準法違反として、そもそも発生していた労基法違反の申告とは別に労働基準監督署に対して労基法違反の申告を行うことが可能となります。
匿名で労働基準監督署に労働基準法違反の申告をする場合の注意点
(1)「匿名」で労働基準監督署に申告を行う場合
以上のように、労働基準法104条2項の規定があることによって労働基準監督署に労基法違反の申告をしたことを理由として使用者(雇い主)から解雇等の不利益な処分を受ける危険性は最小限に抑えられることになりますが、悪質な会社によってはそのような規定を無視して監督署に申告を行った労働者に解雇や減給等の不利益な処分を加えるケースも見られます。
そのため、そのような悪質な使用者(雇い主)の労働基準法違反行為を監督署に申告する場合にどのようにして自己の保身を確保できるかという点が問題となりますが、一番安全な手段をとるという場合であれば、申告書に自分の氏名と住所を記載しないようにするしかありません。
労働基準法104条1項の監督署への申告手続きは、申告者が「労働者」であることが要件とされていますが「氏名(および住所)」を明らかにして申告することが義務付けられているわけではありませんので「匿名」で申告することも可能です。
「匿名」で申告すればたとえ監督署から勤務先の会社に臨検や審問が行われても自分が監督署に申告をしたことがバレてしまうことはありませんから、どうしても監督署に申告したことが知られたくないという場合は「匿名」で申告することも考える必要があります。
なお「匿名」で労働基準監督署に労基法違反の申告を行う場合は、先ほど例示した申告書の「申告者」の欄を白紙のままにするか「匿名」と記載して提出すればよいと思います。
(2)ただし「匿名」で申告する場合は労働基準監督署による監督権限の行使はあまり期待できない
以上のように、労働基準監督署への労基法違反の申告については「匿名」で行うことも可能ですが、「匿名」で申告を行った場合は自分の氏名を明らかにして申告を行う場合に比較して監督署の対応も消極的にならざるを得ない点は留意しておく必要があります。
なぜなら、「匿名」で申告を行った場合は、労働基準監督署としても「誰から」申告がなされているのか分かりませんので、労働者から事実関係の確認を取ることができず、使用者(雇い主)に調査を行うことが事実上困難になるからです。
先ほど挙げた申告書の記載例のように「申告者」の欄に氏名と住所、電話番号を記載して申告を行う場合は、その事業所で労働基準法違反の行為が行われているという疑問を監督官が認識する限りにおいて、その申告者である労働者に対して電話などで事実確認を行うことも可能ですから、監督署における監督権の行使もある程度期待できるでしょう。
しかし、「匿名」で申告を行った場合は、労働基準監督署が申告を行った労働者から直接、労働基準法違反の事実を確認することができませんから、労働基準法違反が発生している明確な確証が得られるか、労基法違反によって被害を受けた労働者が多数存在してマスコミが騒ぎ出すなど社会問題化する場合でもない限り、監督署が使用者(雇い主)に臨検や審問を行うことは期待できないでしょう。
ですから、「匿名」で申告を行う場合は、その点を踏まえたうえである程度確実な証拠を添付して申告するか、労基法違反で被害を受けている労働者が多人数で申告を行うなどして監督署が無視できない状況を作りだすことも考える必要があるかもしれません。
(3)労働基準監督署に氏名を明らかにしても構わない場合
なお、以上のように「匿名」で申告してしまうと監督署が対応を取ってくれない可能性もありますので、労働基準監督署には「匿名」にしないで申告を行い、使用者(雇い主)には氏名を明かさないようにしてもらうという方法もあります。
具体的には先ほど挙げた記載例のように、申告書の「申告者」の欄には自身の氏名と連絡先を明記して、「備考」の欄に「本件申告をしたことが違反者に知れるとハラスメント等の被害を受ける恐れがあるため違反者には申告者の氏名等を公表しないよう求める。」などという一文を挿入して申告をする方法です。
このようにして申告を行えば、労働基準監督署としても事実関係の確認を申告者(労働者)に対して行うことができますから、臨検や審問を行う監督署としては仕事がやりやすいので「匿名」で申告する場合よりも監督署における監督権限の行使が期待できると思います。
ただし、このように使用者(雇い主)に自身の氏名を明らかにしないよう監督署に求める場合には、労働基準監督署の監督官は「○○というお宅の従業員が残業代を支払ってもらっていないといってますけど事実ですか?」などと労働者を特定して臨検に入ることができず、あくまでも一般的な臨検調査の体(てい)で「すみません、今日たまたまこちらの事業所に抜き打ち調査に来ましたので従業員さんの時間外労働について資料を出していただけますか?」などと調査を進めなければならないため、使用者(雇い主)に氏名を明らかにする場合に比較すると迅速な労働トラブルの解決は望めない可能性もあるので注意が必要です。
最後に
以上のように、労働基準監督署への労働基準法違反の申告の手続きは「無料」で利用できる点を考えれば、「やらない」よりも「やる」に越したことはありませんが、監督署への申告ができるのは被害を受けている労働トラブルが「労働基準法違反」にあたるものであることが前提となりますし、申告を行っても監督権限を行使するかどうかはもっぱら監督署の一存に委ねられていること、また、監督署の勧告等を使用者(雇い主)が無視する場合には弁護士や司法書士に依頼して裁判等を提起しなければならないことなどは十分に留意すべきと言えます。