新卒者を募集する企業の中には、新規採用予定の内定者に向けた入社前研修(内定者研修)を実施するところがあります。
入社前研修(内定者研修)の内容は、内定者を囲い込むことを目的とした数日程度の懇親会的なものが比較的多いようですが、実務に直結する実践的な業務研修を入社予定日前に前倒しして数か月間にわたって実施する企業も少なからずあるようです。
ところで、このように実務に直結する入社前研修(内定者研修)が数か月間にわたって実施される会社から内定を受けた場合に問題となるのが、その研修への出席を強制させられたうえ、研修期間中の賃金も支給してもらえないようなケースです。
学生の多くは、就職活動を終えた後も卒論や不足する単位の取得、あるいは生活費捻出のためのアルバイトなど忙しい毎日を過ごしているのが普通です。
にもかかわらず、その貴重な時間を割いてまで研修に出席したうえに1円も支給されないとなれば、本来であれば入社後に賃金の支給を受けて受講するはずの新人研修を、内定者が自己犠牲の下で無償で受けていることになり不公平とも思えます。
では、このように入社前研修(内定者研修)への出席が強制参加とされている場合、研修に出席した内定者は内定先企業に対してその研修期間中の賃金の支払いを求めることはできるのでしょうか?
強制参加の入社前研修(内定者研修)に対しては賃金の請求ができる
結論から言うと、入社前研修(内定者研修)への出席が強制参加とされている場合には、その研修に出席した内定者は研修期間中の賃金の支払いを内定先企業に対して請求することが可能です。
なぜなら、入社前研修(内定者研修)が強制参加とされている場合には、その研修は内定先企業の「指揮命令権」に基づいて強制させられているということが言えますが、労働者が使用者(雇い主)の指揮命令下に置かれている時間については、実際に業務に従事している時間でなくても全て労働時間として賃金が発生するというのが過去の最高裁の判例で確定しているからです。
この「三菱重工業長崎造船所事件」は、始業時間前の保護具等の着脱や施設内の散水等の準備時間が労働時間に該当し賃金の支払い義務があるかという点が争点とされた裁判ですが、裁判所は保護具の着脱や散を怠った場合には懲戒処分等の一定のペナルティーが科される強制性のあったものであったことを認定し、それらの準備時間についても会社の「指揮命令下」に置かれていた「労働時間」に該当するものとして会社側にその時間帯の賃金を支払うよう命じています。
すなわち、実際に就労している時間ではなくても、会社の「指揮命令下」に置かれている時間帯であれば、どのような時間であっても「労働時間」となり使用者に賃金支払い義務が発生するというのが法律上の解釈です。
この点、先ほど挙げたように、入社前研修(内定者研修)へ出席が強制させられているというのであれば、たとえ入社予定日が到来する前であっても内定先企業の「指揮命令下」に置かれているということが言えますので、強制参加となっている入社前研修(内定者研修)に出席した内定者は、その研修期間中の賃金を内定先企業に対して請求できることになり、内定先企業もまた、その研修期間中の賃金を支払わなければならないということになるわけです。
入社前研修(内定者研修)期間中の具体的な賃金はいくらになるか?
このように、過去の裁判例の解釈に従えば入社前研修(内定者研修)への出席が強制されているケースでは内定先企業に対して「研修期間中の賃金を支払え!」と請求できるということになります。
この場合、具体的に「いくら(何円)」の賃金の支払いを求めることができるかという点が問題となりますが、あくまでも私見となりますが、過去の裁判例から考えると、入社予定日以降に受けとるであろう初任給を基に時給換算した賃金の請求ができるものと考えられます。
なぜそのような結論に至るかというと、「採用内定」の法廷性質が、過去の最高裁の判例では「入社予定日を就労開始日とする始期付きの解約権留保付き労働契約」と解釈されているからです。
「採用内定」を出した企業は入社予定日(※一般ていな会社では翌年の4月1日)が到来するまでの期間に内定者に経歴詐称や不良行為(逮捕されるなど)があれば一方的に内定を取り消して「採用内定」によって生じた契約を「解約」することができるため「採用内定」は「解約権」が「留保」された契約であるといえますが、そのような不良行為がない限り内定を取り消すことはできないと考えられますので「入社予定日」は単に「就労を開始する日」にすぎず、内定者と企業との間に有効に労働契約(雇用契約)が成立しているものと考えられます。
つまり、企業側が求職者に対して「採用内定」を通知した時点で企業と内定者との間で有効に「労働契約(雇用契約)」が成立し、入社予定日は単なる就労を開始する日付であるにすぎない、というのが最高裁の判例が考える「採用内定」の法的性質となるわけです。
そうすると、入社予定日が到来するまでに内定先企業が行う入社前研修(内定者研修)についても「採用内定」によって生じた労働契約によって生じる指揮命令権に基づいて内定先企業が内定者に出席を強制しているものと解釈できますから、入社前研修(内定者研修)期間中の賃金も「採用内定」によって生じた労働契約における賃金を基にして計算して差し支えないといえます。
入社前研修(内定者研修)への参加が形式的には任意であっても実質的に強制性がある場合は賃金の請求ができる
先ほど説明したように、入社前研修(内定者研修)への出席が強制されているケースでは内定先企業の指揮命令下に置かれた状態で研修を受けさせられているといえますので、強制性のある入社前研修(内定者研修)については会社側に研修期間中における賃金支払い義務が発生するというのが最高裁の判例を基にした解釈となります。
もっとも、仮に入社前研修(内定者研修)への出席が「自由参加」となっていたとしても、内定者の立場からしてみれば欠席することは事実上困難といえるでしょう。
なぜなら、入社前研修(内定者研修)への出席が「自由参加」とされていたとしても、入社後の査定や会社内での評判等が悪くなることが懸念されますし、入社前研修(内定者研修)の内容が実務に直結するような即戦力養成のため研修であれば、入社後に同僚との能力に差が付いてしまうことを考えて、ほとんどの内定者が事実上出席を拒否できないと考えられるからです。
ですから、仮に入社前研修(内定者研修)への出席が自由参加とされていたとしても、事実上強制されている事情がある場合(たとえば採用担当者から「欠席したら内定取り消されるかもしれないよ」とか「研修を欠席したら入社後に閑職に配属されたり昇進に影響したりするかもしれないよ」などと言われたような場合など)には、研修への出席が強制されているものとして研修期間中の賃金の請求ができるものと考えても問題ないでしょう。
このように入社前研修(内定者研修)が自由参加であっても事実上出席を拒否できない点については裁判官もある程度認識していますので、仮に会社側が研修期間中の賃金を支払わないことで将来的に裁判になったとしても、その点は考慮したうえで会社側の支払い義務を認定してくれるのではないかと思います。
出席が強制されている入社前研修(内定者研修)期間中の賃金が支払われない場合の対処法
以上のように、出席が強制されている(※参加が任意であっても事実上強制されている場合を含みます)入社前研修(内定者研修)に出席した場合は、その研修期間中の賃金を内定先企業に対して請求することができるものと考えられますが、本来は入社した後に行うべき新人研修を入社予定日前に前倒しして行う企業がまともな会社であるはずがありませんから、入社前研修(内定者研修)を行う会社のほとんどはその研修期間中の賃金を支払わないのが実情です。
そのため、内定先企業に対して入社前研修(内定者研修)期間中の賃金を支払ってもらいたいと考える場合は内定者が能動的に内定先企業に対して支払いを請求する必要がありますが、その場合の具体的な請求方法は以下のような方法が考えられます。
(1)請求書を作成し書面で会社に対して請求する
内定先企業が入社前研修(内定者研修)への出席を強制(※形式的には自由参加でも事実上強制させられている場合を含みます)しているにもかかわらずその研修期間中の賃金を支払わない場合は、請求書を作成して郵送し”文書”という形で請求するのも一つの方法として有効です。
口頭で「研修期間中の賃金を支払え!」と請求しても支払わない会社であっても”書面”という形で請求すれば支払う会社もありますし、仮にそれで支払わない場合でも、特定記録郵便など配達された記録の保存される郵送方法で送付しておけば「請求したのに支払ってもらえなかった」という点を客観的な証拠として残すことができますから、後で裁判になった場合に有効な証拠として提出することも可能です。
ですから、口頭で請求するだけでなく、まず最初は書面で請求するという方法を取ることを考えたほうがよいといえるでしょう。
なお、この場合に会社に送付する請求書の文面は以下のようなもので差し支えないと思います。
○○株式会社
代表取締役 ○○ ○○ 殿
入社前研修期間中の賃金支払いについて
私は、〇年〇月〇日、貴社から採用内定の通知を受け、同年〇月〇日から〇月〇日までの期間にわたって貴社が内定者を対象として実施した入社前研修に都合〇日間出席いたしましたが、当該研修期間中の賃金が支払われておりません。
しかしながら、当該研修は入社後の実務に直結する内容の研修であり内定者としては欠席することが事実上憚られるものですし、貴社の採用担当者からも出席するように指示されたうえで出席していますから、貴社の指揮命令下に置かれた状態で出席したものといえ、その研修を受講した時間は全て労働時間にあたるといえます(三菱重工業長崎造船所事件:最高裁H12.3.9参照)。
したがって、貴社が当該研修期間中の賃金を支払わない現状は、支払い義務のある賃金について支払いを遅滞している状況にある者と同視できますので、当該研修期間中に発生した賃金を全額、速やかにお支払いいただくよう、本状をもって申入れいたします。
以上
〇年〇月〇日
〇県〇市〇町〇丁目〇番〇号○○マンション〇号室
○○ ○○ ㊞
(2)労働基準監督署に労基法違反の申告を行う
先ほど述べたように、入社前研修(内定者研修)への出席が強制(事実上の強制を含む)させられているケースでは会社側に賃金支払い義務が生じるものと考えられますので、仮にその研修期間中の賃金が支払われていない場合には、その内定先企業は賃金の支払い義務を規定した労働基準法24条1項に違反していることになります。
賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。(以下省略)
この点、使用者が労働基準法に違反する行為を行っている場合には、労働基準法の104条において労働者から労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行うことが認められていますから、このような案件で内定先企業が入社前研修(内定者研修)期間中の賃金を支払っていない場合にも、労働基準監督署に対して労働基準法違反の申告を行うことが可能といえます(労働基準法第104条1項)。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
労働基準監督署に労働基準法違反の申告を行い、監督署から勧告等が出されれば、内定先企業の側でも速やかに研修期間中の賃金を支払う可能性もありますので、会社側に請求しても研修期間中の賃金が支払われない場合には監督署への申告も考えた方がよいのではないかと思います。
なお、この場合に労働基準監督署に提出する労基法違反の申告書は、以下のような文面で差し支えないと思います。
【労働基準法104条1項に基づく労基法違反に関する申告書の記載例】
労働基準法違反に関する申告書
(労働基準法第104条1項に基づく)
○年〇月〇日
○○ 労働基準監督署長 殿
申告者
郵便〒:***-****
住 所:東京都〇〇区○○一丁目〇番〇号○○マンション〇号室
氏 名:申告 太郎
電 話:080-****-****
違反者
郵便〒:***-****
所在地:東京都〇区〇丁目〇番〇号
名 称:株式会社○○
代表者:○○ ○○
申告者と違反者の関係
入社日:(採用内定日:〇年〇月〇日)
契 約:期間の定めのない雇用契約
役 職:特になし
職 種:営業
労働基準法第104条1項に基づく申告
申告者は、違反者における下記労働基準法等に違反する行為につき、適切な調査及び監督権限の行使を求めます。
記
関係する労働基準法等の条項等
労働基準法第24条1項
違反者が労働基準法等に違反する具体的な事実等
・申告者は〇年〇月〇日付の採用内定通知書により違反者から採用内定を受け、違反者が内定者向けに同年〇月〇日から〇月〇日までの期間に実施した入社前研修(内定者研修)に都合〇日間出席した。
この研修は形式的には自由参加とされていたが、申告者は違反者の採用担当者から電話で「研修を欠席した場合は地方支店に配属される可能性もある」「入社後の査定に響くので出席しておいた方がよい」「出席を拒否する場合は最悪の場合内定取消もありうる」等の説明を受けたため、申告者は事実上欠席することができず違反者の指揮命令下に置かれた状態で研修に出席していた。
・申告者は研修受講後再三にわたって違反者に対し研修期間中の賃金を支払うよう求めたが違反者は当該研修が自由参加のものであったことを理由にその支払いを拒否している。
・しかしながら、このような違反者の行為は使用者の指揮命令下に置かれた時間は全て労働時間と認定し賃金の支払い義務を肯定した過去の判例(三菱重工業長崎造船所事件:最高裁H12.3.9参照)の判旨に反するものであり労働基準法24条1項に違反するものであるといえる。
添付書類等
1.〇年〇月〇日に違反者から受けた入社前研修への出席を求める書類の写し 1通
2.〇年〇月〇日付けで違反者に特定記録郵便で送付した請求書の写し 1通
備考
特になし。
以上
(3)その他の対処法
上記のような方法で対処しても会社側が内定者研修期間中の賃金を支払わない場合は、会社側が自身の請求によほどの自信があり研修期間中の賃金を支払わないことが労働基準法24条1項に違反しないという確固たる確信があるか、ただ単にブラック体質を有した法律に疎い会社かのどちらかである可能性が高いと思いますので、なるべく早めに法的な手段を取って対処する方がよいでしょう。
具体的には、労働局に紛争解決援助の申し立てを行ったり、自治体や労働委員会の”あっせん”の手続きを利用したり、弁護士会や司法書士会が主催するADRを利用したり、弁護士や司法書士に依頼して裁判を行うなどする必要があると思いますが、その場合の具体的な相談先はこちらのページでまとめていますので参考にしてください。